裁判所の憲法判断

 一昨日の大阪高裁の判断については、今日になってもまだ朝のニュース・ショーなどでおかしなことが言われていましたので、確認のためにすこし追記しておきます。

日本国憲法第八一条 法令等の合憲性審査権

 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

 ここで明確に述べられていることから、最高裁の判決がくだるまでは小泉首相靖国参拝行為が「違憲」かどうか最終的な判断にはならないと考えられます。ですからどのような判断(まして傍論)が高裁で為されようとも、終審まで行っていない判断は(異見の高裁判断もあることですし)決着済みのものではあり得ません。


 また一部報道で、小泉氏の靖国参拝問題の訴訟で「憲法判断が避けられている」というような(ネガティブな)表現がみられましたが、違憲審査権行使の方法についての判例では

 裁判所は、憲法判断を持ち出さずに裁判ができる場合には、憲法判断をする必要がないのみならず、すべきでもない。
 恵庭事件第一審(札幌地裁判決昭42・3・29)

 とか

 裁判所は、憲法問題以外の争点について判断することによって訴訟を終局させることができる場合には、さらに進んで憲法判断をする必要はない。
 教科書裁判検定不合格処分取消請求事件控訴審(東京高裁判決昭50・12・19)

 というものがありまして、訴えの利益がないと認められたなどの場合は当然憲法判断に踏み込まない判決が出されるわけです。


 そしていずれにせよ「行われた小泉首相靖国参拝」自体に問題があったかなかったかだけの判断にならなければいけないわけですから、「政教分離という政教分離に反する憲法違反の行為が将来どうのこうの」というところでは司法の判断は絶対に出されません。

 わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。わが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法およびその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行いうるものではない最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲において行使されるものであり、この点においては最高裁判所下級裁判所との間に異なるところはない。
 警察予備隊合憲性事件(最高裁大法廷判決昭27・10・8)

 まあこの具体事案としての「精神的苦痛」という方便なのでしょうが、結局司法で裁けるのは万が一にも違憲という事態があったとしてそれが具体的に何らかの(誰かの)不利益になったと判断することに限定されますから、実際に総理の行為が(この場合)靖国神社に特権を与えたり、靖国神社が政治上の権力を行使したりすることを支援するようにならない限り「ただの予想・危惧」などでは憲法違反とされないということです。


 なお私の立場は小泉氏の参拝が私的行為であるとみなすものであり、他人様の信仰に容喙する行為の危険性を強く感じるものですから、こういう乱訴(と個人的に思われるもの)には否定的です。

偽善

 偽善という言葉はとても主意主義的な言葉だと思います。もちろん(犯罪の)構成要件で「故意」が問われているように、行為の評価に主観的要素を見るということは一般にあることなのですが、その意志にしたところで実際には何らかの行為(もちろん告白・自白というものも含みます)を介さなければ捉えることができないものです。他人の心に直接アクセスする手段を持たない以上、悪意ある行為などで実際に「善」と反対の意図が見えない段階で偽善ということを言うのは避けるべきではないかと考えます。実社会ではそういうことをする人が多いのですが…。


 偽善ということを言われるのは一般に結構つらいものです。それこそ全き善の心を持つか、あるいは非常に鈍感でいるかしない限り、自分の心に善ではない部分を見つけるのは容易いことではないでしょうか? ですから「偽りの善」と言われても自己弁護しづらく、それが結局偽善と言われるのを避けること、つまり善と取られることもしないということにつながりかねません。これは総体的に善なる行為を少なくすることになってしまうでしょう。


 ドラマや小説の類で偽善などを見るとき、私たちはあくまで「神の視点」に近いものを与えられている立場なので、それをわかりやすく感じてしまいます。ですが自分の心を覗いても善もあれば不善もあり、それがリニアな評価を自分自身にすらできないようにしている以上、他者の動機を簡単に決め付けてしまうのは常に危ういことでしょう。ただ、この主意主義的判断から私も免れているとは言えませんが…。


 さて「しない善よりする偽善」という言葉が一時しきりに聞かれました。私はこれを積極的に評価したいと考えています。もし仮にどんなに偽善的意図があったとしても、善を行った時点でその人が死んでしまえばそれは善行を行ったという事実だけが残るだけです。そう考えて開き直った行為をすることは、総体的に善なる行為を増やすことになるでしょう。それは誰にもわかることではないかと思います。
 中高生の頃、私自身電車で席を譲ることができませんでした。それは「いい格好」していると取られるのがとても恥ずかしかったからです。十代の頃は誰も自意識過剰になりがちですが私もご多聞に漏れずそういう感じで、誰も席を譲ったりしないところで自分がその行為をするのは「目立つ」ことであり、それは「偽善」的だと思われるかもしれないと意識してしまっていたのです。


 偽善という言葉は非常に強く他人の足を引っ張るだけに、自分ではできれば使わないようにしたいです。そして「しない善よりする偽善」という言葉をさらに一歩進めて、「偽善などない」というところまで心底言えたらいいなと思っています。習い性から逃れるのはとても難しいことですが…。 少なくとも他者の行為は主意主義的観点からだけではなく評価できるということは心に留めておきいたいものです。

 私が多少なりとも変わることができたのにはいろいろな理由がありますが、下の徒然草の一節もその一つでした。これを読んで何か感じていただければ幸いです。


吉田兼好徒然草』(第八十五段)

 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人などかなからん。おのれすなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常なり。いたりて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見てこれを憎む。「おほきなる利を得んがために、少しきの利をうけず。偽りかざりて、名を立てんとす」とそしる。おのれが心にたがへるによりて、この嘲をなすにて知りぬ。この人は下愚の性うつるべからず、偽りて小利をも辞すべからず。かりにも賢を学ぶべからず。
 狂人のまねとて、大路を走らば、則ち狂人なり。悪人のまねとて、人を殺さば悪人なり。驥を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを賢といふべし。


 簡単な訳をつけてみます。

 人の心はまっすぐではないから、偽りがなくはない。そうではあるが、まれには見せかけでない真実の人がいないわけがない。自分がまっすぐではなくても、他の人が思慮深く賢いのを見てうらやましく思うのは当たり前のことである。いたって愚かな人は、たまたま賢い人を見てこれを憎む(ようになる)。「巨利を得るために小利をうけない(でいるのだ)。偽って(自分を)飾って、名を立てようとしている」と悪く言う。自分の心と違うからといって、こういう嘲り(の言葉)を出すので(その人が愚か者だと)わかる。こういう人は下愚下根の生まれつきを変えることはできないし、(間違っても)偽って小利でさえ固辞することはできない。かりそめにでも賢さを学ぶことはできない。

 狂人の真似だといって、大通りを走れば、それはそのまま狂人である。悪人の真似だといって、人を殺せば悪人である。驥*1から学ぶのは驥の同類であり、舜*2を学ぶのは舜の仲間である。(動機に)偽りがあったとしても賢を学ぼうとする者を賢と言うべきである。


追記:はてなの質問
 あなたは電車やバスの普通席に座っていたとき、高齢者が乗ってきました。あなたはどうしますか?
 意外、というか明るい話題かと…
 これだけ席を譲れる方がいるのですね。

*1:千里を行く駿馬

*2:中国の古代の聖人