日本の進化論の受容
昨日finalventさんが極東ブログで日本人と進化論というエントリーを立てられていました。大変面白い内容だったのですが、ちょっと手元にそれに絡んだ資料がありましてその紹介をして後追いで書きたいと思います。
私の紹介する資料は丸善の出している書評誌『學燈』の2000年1月号にあります。ここで専修大学の長谷川眞理子氏が「現代によみがえるダーウィン」という一文を寄稿されています。その冒頭で明治35年に『學燈』が知識人およそ80名に聞いたアンケートの結果が紹介されていますが、それは「19世紀の最も影響力の大きい大著は何か」というアンケートでした。そしてそこで当時第一位に挙げられたものが『種の起源』でありました。その支持数は32票で第二位の『ファウスト』の16票の二倍もあり、さらにアンケート下位には同じくダーウィンの『人類の進化』が含まれていたというおまけ付です(一人で二つの著作がリストに上ったのはダーウィンのみ)。
なぜ明治のこの時期にダーウィンがこれほど評価されていたかについては長谷川氏も「詳しいことを私は知らない」とされるのですが、一つの推測をされています。
…明治時代にダーウィンの進化理論がいったいどれほど理解されていたかが問題である。それは本当に生物学の理論として理解されていたのだろうか? その点で気になるのは、先のアンケートで第三位にあがっているのがハーバート・スペンサーの著作であることだ。スペンサーはダーウィンの考えを借り、悪名高い「社会ダーウィニズム」を提唱したことで有名である。ダーウィンの理論も、科学の理論としてではなく、だぶんに社会思想として興味がもたれていたのではないだろうか? そうだとすると、社会ダーウィニズムが衰退するとともにダーウィンそのものに対する興味も薄れていくことになるだろう。
これは傾聴に値する推測ではないかと思います。つまりダーウィンの進化論が19世紀のヨーロッパ(というか近代)を象徴する一つの社会思想として捉えられていたのではないかということです。実際、ダーウィンの時代には統計学も確立していませんでしたし、生態学も始まったばかりです。実証性の乏しい時期に組まれた彼の理論は(その後がどうあれ)多分に思弁的な理論でしかなかったわけですから、一つの哲学として捉えられたとしても当然ではなかったかと思います。現に彼の著作には「未だに解決のついていない事柄がたくさん論じられている」と長谷川氏もおっしゃいます。(この部分の氏の取り上げ方は「今読んでもアイデアの宝庫と呼べるほど示唆に富んでいる」という逆向きのものですが…)
進化論が社会思想として捉えられたのならば、当然natural selection(自然の選択>自然淘汰)も近代西洋を織り成す一つの哲学として受け取られたはずです。日本が西洋を理解し、それに伍して生き延びるために「淘汰」という考え方を重要視したというのはありそうなことです。 またそれは一つの自然論でもあり、私は進化論の中に初期リベラリズムの流れに見られる「自然の配慮」に関してのオプティミズムがあったと考えておりますので、この部分は「自然法爾」などという言葉で示される日本の自然観と親和性があったのではないかと思います。
(明治35年の段階でnatureが「自然」と訳されていたか、そして「じねん」ではなく今に通じる「しぜん」という言葉に重なっていたかなどは今後調べてみる必要はあるでしょうが…)
また氏は、日本での進化論の非正統的な受容の理由を次のような問題点に求められます。
その後の日本で、ダーウィンの著作の意義の認識のみならず、進化生物学という学問全体を未成熟のままにとどまらせる原因となったのは、京都大学の今西錦司による独自の「今西進化論」がもてはやされたことと、ルイセンコイズム*1への傾倒であろう。
戦後日本の左翼知識人にルイセンコイズムが大きく影響を与えたという話は聞いたことがありますが、残念ながら私は詳細を知りません。これについてはご存知の方がおられましたらお聞かせください。
そして今西進化論なのですが、これがダーウィニズムに置換し得るものとして受け取られたこと自体が、先に進化論が社会思想として受け入れられていたということの傍証になるのではないかと考えます。
今西錦司は、自然淘汰と競争を無視し、「生物は変わるべきときには変わる」という標語で反ダーウィニズムをかかげた。マスコミは、ダーウィンを越える進化論、日本独自の進化論と宣伝した。ダーウィンを越えたかどうかは別として、確かにこれは日本独自の進化論であった。しかし、これは現代科学の枠内における議論ではなかったので、進化生物学に今西進化論が何らかの影響を与えることはまったくなかった。不幸なのは、今西進化論があたかも科学の枠内にあるかのように受け取られ、真の進化生物学*2の日本での普及が非常に遅れたことである。
今西進化論は、哲学としてのダーウィン進化論に対する日本側のカウンターパート、もう一つの自然論として語られていたのではないかと思います。もちろんマスコミの煽りとか、かすかなナショナリズムもあったかもしれませんが、なによりそれが日本思想の自然観を色濃く反映していたからこそ「自然に」日本で受け入れられたのではなかったでしょうか?
檸檬の丸善
丸善と言えば、こういう記事がありました。
大正期に活躍した作家、梶井基次郎の小説『檸檬(れもん)』にも登場する京都の老舗書店「丸善」の京都河原町店(京都市中京区)が今月10日で閉店する。店内に『檸檬』の文庫本1000冊が積み上げられ、「丸善ファン」らが買い求めている。
横浜で創業した丸善は、明治5年に京都でも営業開始。大正14年発表の『檸檬』に登場する丸善は、現在地とは異なる三条麩屋町(現・中京区)にあったとされる。
小説では、「えたいの知れない不吉な塊」を抱え、京都の町をさまよい歩いた主人公が「最後に立ったのは丸善の前だった」と記され、手にしていたレモンを美術書の上に置き立ち去っていく。この小説で丸善の知名度は全国区になった。
しかし、丸善が全国の自社ビルを売却する方針を打ち出した中に、京都の店も含まれていた。4月に閉店が決まったあと、『檸檬』の売り上げは徐々に上昇。8月には、積み上げた本の上にレモンを載せた絵柄の記念スタンプを作製し、押印ができるようにしてからは、大量購入する人も現れ、1日50−70冊が売れる日もあり、在庫も底をついた。
(後略)
産経新聞【2005/10/01 大阪夕刊から】
確かあの丸善は一階が輸入洋品売り場とかじゃなかったでしょうか。河原町の丸善が『檸檬』の丸善と場所が違っていたというのは知りませんでしたね。それにしてもスタンプとは商売上手。
ただ『檸檬』自体にそれほどの思い入れはないですから、もしあの丸善に今日明日に行けたとしても私は多分文庫本は買わないと思いますけど、それでもほんのちょっと残念という気はあります…