吉本隆明インタビュー「戦争について」

 このインタビューは、『現代思想』1975, 4, VOL.3-4に掲載されていたものです(pp.15-29)。インタビューのお題は「歴史と宗教」。その中から興味深かった「戦争について」の項の4分の3ほどを引きます(pp.22-23)。

戦争について

 ――補足して伺いたいと思います。さきほどの内ゲバの問題で、身体と観念が共同性の構造においては転倒されているということを理解していないからそれがおこるのではないかと指摘されました。ところで、個人的に人を殺すのはいやであるから、戦争はいやだという論理がありますが、この論理も、同様に、共同性においては身体と観念が転倒されているということを理解していないといえますでしょうか。


 言えると思いますね。もしも、人を殺すのがいやだから大量殺戮である戦争はいやだという論理で現実に戦争が消滅するなら、それは簡単な算術問題になりますよ。一プラス一は二という問題になる。だけど、人間の歴史を遡ってみると、人を殺すのがいやだから戦争するのはいやだという人がみずから殺戮者になるということもあります。また一人一人聞いていったら誰でもいやだと言うんじゃないか、好きだという人はあまりいないんじゃないかと思われるにもかかわらず、戦争は起るわけです。戦争が起る要因は、そういう個々の人々の、人を殺すのはいやだとかいう倫理的次元とはまったく関係がない。人を殺すのがいやだから戦争はいやだ、戦争はいやだから徴兵は忌避するという人もいます、宗教的にも理念的にもそういう人達がいます。日本には戦争中あまりいなかったけれども、アメリカにはクウェーカー教徒のような人もいます。そういう人達は集団収容所に隔離されたりするわけです。現在でもいるでしょう。
 しかし、それだから戦争が終わったり起らなかったりするかというと、そんなことはない。そういうことは関係がないんです。そういう人達が全体を制したら、あるいは過半数を制したら、それでは当然戦争しないはずじゃないか、とこうなるわけでしょう。ところが、それがまた観念の問題の難しさ複雑さでもあると思う。人間の考えは千差万別です。人を殺すのがいやだから戦争はいやだとか、人を殺すのはいやだけれども国家が戦争するならば仕方がないじゃないかとか、人を殺すのは大好きだから罰を受けずに人を殺していいのならこれほどいいことはない、だから戦争へ行きたいという人もいるかもしれない。そんなのは千差万別です。それで、人を殺すのはいやだから戦争をするのもいやだという同じ意見が過半数あるいは全体を占める可能性は、その個々の人の観念の次元からは生じないだろうとぼくは思います。つまり、それはもっと別な、共同観念の次元から生じるだろうと思います。
 その共同観念の次元において、もしも、人を殺すのはいやだから戦争はいやだという意見が過半数を占めたら戦争は起らないと思いますけれども、それは個々の人間がそう思うか思わないかとはかかわりがない。個々の人間の次元で、殺されても戦争にいくのはいやだという人が過半数を占めるということはまずないだろうと思います。そういうことが戦争をやめさせる原動力になるということは、まずないだろう。間接的にはいろいろ影響はあるかもしれないけれども、直接的にはないと思います。それよりも、共同性を占めるところの、そういう次元で、それもかなり枢要な段階で、戦争はいやだという意見が過半数を占めたら、戦争は起らないということがあり得るとは思います。また、過半数を占めるということもあり得ると思います。しかし、それはあくまでも個人の次元とは違う。観念が肉体であり、肉体は観念であるという次元で過半数を占めなければ戦争は終わらないとぼくは思います。


 だからといって、そういう反戦の姿勢が倫理的につまらないとは思わないけれど、しかしそういう人が多数を占めれば戦争は終わるという考え方を持つことには、どこかに錯誤がある。歴史的錯誤か、現状認識における錯誤か、そのどちらかでしょうが、どこかに間違いがある。国家間の戦争とか、共同理念と共同理念の戦争であるとか、あるいは共同利害と共同利害の矛盾から起こる戦争とかは、その要因が、歴史的にいってそういうようには形成されていないですからね。(後略 強調は引用者)


 子供に戦争の悲惨さを教えなければならない、戦争の痛みを風化させてはならない…という反戦教育、言い換えれば戦争トラウマを教育することによって反戦・非戦につなげようという発想は、ここではほとんど否定されているようにも思えます。
 私は吉本隆明氏の本を読むことをあまりしてこなかったのですが、確かこの内容はどこかで彼が書いていたということは記憶の隅にありました。いろいろ探しても見つからなかったのに、まったく別のことをしている時にふと発見。人生はそういうものかも(笑)だってこの号の『現代思想』の特集が「増頁特集=柳田国男 その方法と主題」ですから、見つけようとして見つかるわけもないなあと思いました。
 吉本読みのfinalventさんは「極東ブログ」の冒頭の記事で「平和教育の残酷さ」というものから書き始められていますが、この記事で書かれていることも確かに通じているかなと思います。


 私は、歴史感覚を年少時から養うために「細かい具体的なエピソード」を聞かせたり読ませたりするのが有効であると考えるものです。ですから「語り部」となった方々から戦争の話を聞くというような行事には大いに意味を感じます。(身近な人で戦争体験者という方々は最近の子供にはいよいよ縁遠くなってきているでしょうし)
 ただそれを「反戦」目的であるとかいうように型にはめるのはどうかと思ってきました。それはむしろ当時のその人々が考えたり思ったり行動したりしたところのものの豊穣さを、戦争はだめだという観念でどこか小さくしてしまっている(場合によっては捻じ曲げてしまっている)のではないかと感じるからです。豊かなエピソードというものは、善悪とか特定の考え方とは関係なく、そのまま、ありのままというところの雑多さ、猥雑さから生まれてくるんじゃないかと…。


 吉本氏の思想云々ではないのですが、さすがに含蓄のある言葉だと感じます。いろいろ考える種になりそうに思いましたので、それで書き留めてみました。

身体と観念が共同性の構造においては転倒されている

 インタビュアーが触れている「さきほどの内ゲバの問題」というところは、次のような記述です

(政治について という項での吉本氏の言葉)
 非常にはっきり言ってしまえば、政治的行動には、つまり共同の構造には、個人はさかさまに入っていくということです。つまり、観念が身体なのであり、生身の身体は、むしろその影である、観念である。共同の構造では生身の身体は観念とみなされるということです。
 ですから、内ゲバをやったりしている人達がよく物質力だ物質力だ、観念は物質と化さなければ意味がないんだという言い方をするわけですが、ぼくはそれは間違いであると思う。政治においては観念こそが物質力なんです。つまり観念こそが身体なんです。生身の身体はその場合亡霊なんです。ですから身体を殺しても傷つけても観念は全然死にはしない。ここの身体を内ゲバでやっつけても、政治構造の本質には全然傷がつかない。そういうことを彼らはわかっていないんじゃないか、というのがぼくの考えです。身体をしらみつぶしに殺したって傷つけたって、そんなことは政治の本質においては何も意味しない。個人的テロル、暗殺が無効であることの意味は、ぼくはそういうことだと思う。それで他の党派が消滅するなんていうことは絶対にあり得ない。なぜならば、共同の構造においては、観念こそが肉体なんだから、観念を殺さなければ絶対に死なないということです。その党派の観念を克服できなければ、その党派は滅びませんね。なぜならば、政治行動においては観念こそが肉体であり、肉体は観念だからです。しかるがゆえに、政治においては、ある理念のもとに統一されること、共同行動をとることが可能であるし、またそこでは、明るく素直で建設的なというような理念がよく個人を制し得るわけです。