時間遡行(ごっこ)

 私自身、時を駆けることができたり少女だったりすることは全くないのですが、少し前からlife hack?として時間遡行(ごっこ)をしています。
 台所から食卓へ、ご飯とお味噌汁と納豆のパックと卵とさらに一皿運ぼうとするとき(しかも中間のドアは半開きであるとき)など、どうしても一気に運びたくなりますしドアは足で開けます。(恥ずかしすぎのマナーですが一人暮らしが長いと当然こうなります)


 で、そんなとき往々にしてお味噌汁をこぼしたり卵を落として割ったりお茶碗がご飯をぶちまけて欠けたり等々の悲惨な事態を招いたりします。ほんのちょっと(あぶないかな)とか(今、自分の能力を超えることをしようとしている…)とか閃いたりもするのですが、結局(だってめんどくさいし)とかいうことで決行してしまい、何遍かに一遍は悲劇がおきるのでした。


 そこでその「めんどくさい」という気持ちを抑えるため、少しでも危うさを感じたときはこう考えることにしました。

 実は自分は3分後の未来から今来た

 
 その3分後の未来では、卵は割れご飯はひっくり返り納豆はカーペットに付きお味噌汁で手がやけどしている
 どうしようもない悲惨さだ
 もう収拾がつかない
 

 そこで私は3分だけ時間を遡ってやってきた
 今は「やり直しのチャンス」を与えられた状態だ
 ああ神様ありがとう、今回は慎重に二度でも三度でも往復してものを運びます


 面倒くさいけど、あの悲惨さ(想像)に比べればなんのことはない…

 子供の空想じみてますが(それはさんざんやってきましたし)これがなかなか成果を挙げて、ひやっとしそうな予感がする時は慎重な上にも慎重な態度がとれるようになりました。(予感がなければ難しいというか、まだまだ失敗の根絶はできませんけど…)


 そしてだんだんこれを仕事の方にも生かそうと、締め切りが近づいてきているときなど

 実は自分は一週間後の未来から今来た

 
 その一週間後の未来では、締め切りが来ているのにほとんど何もやっていない。パニックだ。督促の電話も来ている
 どうしようもない悲惨さだ
 もう収拾がつかない
 

 そこで私は一週間だけ時間を遡ってやってきた
 今は「やり直しのチャンス」を与えられた状態だ
 ああ神様ありがとう、今回はこの時間を利用して早速仕事に取り掛かります


 面倒くさいけど、あの大変さ(想像)に比べればなんのことはない…

 これがうまくいったならどんなにかいいでしょう。


 しかし、思ったほどにはこの時間遡行に成功しません。(うんわかったわかった、でもまだちょっとあるよね)ぐらいの声が聞こえてきてしまいます。もしかしたらタイムパトロールの奴らが妨害しているのかもしれません…(笑)

一年前のホテル・ルワンダ

 ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 06/02/25に端を発した議論、もう一年以上前だったんですね。その時のことが記憶にひっかかっていて、去年の2/28の過去日記「差別を糾弾する口調」を見てみましたら、何のことはない今と全く同じようなことを自分は書いていました。
 一年も経つならもっと考えも成長してよさそうなものと…まあそれはしかたがないですか。同じところをぐるぐる回りながらどこか一歩進むとかずれるとか、今はそれが精一杯でしょうね…歳ですし ○| ̄|_

 「差別」問題を語るときに糾弾口調になる方にはどうもついて行けないところがあります。他者を「差別をする者」、「差別意識を持つ者」として糾弾するとき、どうしてもそれを咎める側は差別に対してイノセントな、いえむしろ「高い」立場に身を置いているのではないかと思えるからです。


 差別問題は皆の心の問題だ、自分にもその種があることを意識しなければならないというその御当人が、自分と異なる者として他者の罪や責任を問うとき、そのおっしゃられる言葉は私に違和感を感じさせます。


 町山氏の当該記事で申しますと

 ところが、この人は、虐殺の種を抱えている自分に全然気づいていない。

 というところと

 人を差別し虐殺するのは日本人や特定の民族ではなく、まさにこの人のような人が原因なのです。

 というところのつながりの間に、実は密かな「ずれ」があるのではないかと見えるのです。


 差別は他人事だと思ってはいけない。我々はこの問題に関して局外者でいることはできない。すべての人が自分の心の中に差別の種をもっているのだ。云々…


 これを否定するつもりはありません。正論だと思います。


 しかし「誰もが例外なく差別者になりかねない」という認識は、他者を糾弾するという態度につながっていかないはずのものなのではないでしょうか? あなたも私もいつ「差別」する側になるかもしれないよ、というのは共感を求める言葉であり説得する言葉です。惧れを認識させる言葉といっていいかもしれません。 その認識は、何も私たちに特別の「高い位置」をもたらしてくれるものではないのです。

 まったく、溜息がでるぐらい何だか同じところに自分は着目したもんだと…
 ただ、直接この「私の正論」を騒ぎの渦中でぶつけることをしなかったことだけは「成長」だったかなと少しだけ思いました。