ペースメーカーのことを持ち出す人と副流煙のことを持ち出す人

 電車内でのケータイ使用に対して文句をつける時に「ペースメーカーに影響するから」ということを持ち出す人と、喫煙者に文句を言う時に「副流煙は周囲の健康を害するから」という理屈を持ち出す人、私にはこれらはほとんど同種の人に思えます。
 電車内での通話が不快、もしくは近間での喫煙が不快。そういう理由も立つと思いますし、まず「ここでは止めて欲しい」という説得(とかお願い*1)が有効な場合は多いでしょう。むしろそういう説得が通じずに睨んだりうるせーなどと言ってくる人に対しては、ペースメーカーだの副流煙だのを持ち出しても有効性は薄いのでは? いかにもそういう「言葉の通じない」感じの人に対してこういう文句がつけられるのは稀かもしれません。で、むしろ説得(や、お願い)が通じるかもという感じの人に、ペースメーカーやら副流煙やらという「大義名分」付で高飛車なもの言いがなされるのではないでしょうか?


 これらの文句が不当だと決め付ける気はありません。たとえペースメーカーの直近でなければ影響は低いという実験結果や、数十年喫煙者と同居した配偶者に有意な影響はなかったとかいうコホートの結果があったとしても、その逆を言う研究などもあるそうですし、グレーならば念の為健康被害を気遣うのがマナーという見方だって十分納得させるものはあります。
 ただ、こうやってペースメーカーとか副流煙とかを持ち出す方は、相手がぐうの音も出せないような「正しさ」を持ち出している(自分に付与している)、すなわち「正義は我にあり」とやや過剰に思いたい方ではないかと感じることもあるのです。
 そしてこの「正義」が発言者に与える勇気は、傍で見ていて思わず悪意と見紛うばかりの強度を以ってあたりに振りまかれることもあるんじゃないでしょうか。


 また、もちろん注意を受ける側もこれに対する「理屈」を捏ねて、たとえば「通話料を払っているんだからどこで話そうが自分の自由」とか「ここは禁煙と決まっていないんだから嫌なら自分が向こうへ行けば?」とか言う場合もあると思います。
 これまた限定的ではありますが正論にも見えるというところを持つ言葉です。傍で見ていて賛成する気にはちっともならないのですが、本人たちが自分を自分の心の中で正当化する程度の強度を持った「正義」なのでしょう。
 ここまで来て、妙な正義と正義のぶつかり合いになったら目も当てられません。周囲はただ「うるさい!」と思ってしまうだけです。


 勘の良い方はもうお気づきと思いますが、まったくこれと同様の構図はネット上でもよく見かけるものですね。
 正義をかざす時は、用法容量をよく守った上で気をつけて使いましょう…という話です。難しいですけど。

*1:自分が正しいと思っている人は、「お願い」なんかしてやるものか!と考えられるのでしょうが…

正義も悪意を与えてくれる

 「正義は勇気を与えてくれる」という科白があって、微妙にひっかかったのですが、少なくとも私は「正義」っぽい側に立っていると感じると(大義名分がある感じだと)過剰に強気になってしまうという自覚はあります。明白な法規違反などに強く文句をつけることができるという意味では確かにそれは勇気=イイコトでもあろうとは思いますが、正義でない側(と思える側)に対して加罰的・懲罰的な意欲が溢れるという瞬間もわが身に感じたことはありますし、これはもしかしたら「正義」の中に生まれる悪意=ヨクナイコトなのではないかと考えないでもありません。


 善意や正義といったものを実効的にするために、どこかこの「反対者に対する悪意」が手段として現れてきてしまうのかも。それは本末転倒の部分を含むようにも思えるのですが…