同害報復の正しさ

 以前も書きましたが、どこかで「誰それが弱者で被害者」ということがいつのまにか「(その)誰それに正義がある」という話にすりかわっている感があると思います。そしてそれは「同害報復」に感じる正当感を基にしているのではないかと…。
 その人が「やり返す」のは正しいと思えるから、その正義にもの申すことはとても難しいです。でも同害報復に正当性があるとしてもそれはあくまで「同害」までであって、「やられたら<やられた分だけ>やり返す」という枠を超えてしまえばそれは正義ではなくなるんじゃないかとも思います。


 またその弱者が受けた不利益が「社会」によるものだとされる場合、その社会を構成する私たちにも責任が回ってくるという理屈があります。これはある意味受け入れていい理屈だと思いますが、その不利益の補填はあくまで社会を通じた間接的なものというのが適当でしょう。それ以上の私たち自身の直接的な「同情」や「慰め」などは、正義とか責任とかじゃなくて、一人一人の自発的な心持によるしかないのです。それ以上は無理強いできません。
 そしてそれが社会によるものでも個人によるものでも、何よりその被害の評価というのが重要になるわけです。

 有名な話ですが、ハンムラビ法典*1で有名な「目には目を、歯には歯を」という一節は同害報復を言い、さらには<やられた分だけ>という側面が強いと言われています。つまり「同害以上は不正義」という制限をつけることにより正義を担保しているわけです。
 日本の刑法でも正当防衛は権利として認められていますが、やりすぎれば過剰防衛として犯罪行為となります。


 「目には目を」のハンムラビ法典でも、たとえば飼っている牛を殺された場合はいくらのお金で補償するなどときっちり同害報復にはなっていません。これは考えようによっては当たり前で、牛を殺した相手が牛を飼っていない場合などはそもそも同害という行為ができないのですから。また、奴隷が傷つけられた場合と主人が傷つけられた場合でも法で定められた罪の軽重が違います。さすがに現在は身分の違いで被害の量が違うなどということにはなりませんが、結構「育った劣悪な環境」などという抽象的なものが情状酌量分を左右したりしますから、それを是とするなら絶対的な公平性などはもともと無いと諦めなければならないでしょう。


 <やられた分>の評価と<やり返す分>の程度を見据えることが大事だと私には思えます。

*1:Hammurabi王は紀元前18C頃のバビロン第一王朝(セム遊牧民・アムル人の王朝)の王。チグリス・ユーフラテス両河地方の統一を果たし、法典を制定。この法典はシュメール法を継承、集大成した成文法で、全282条。刑法は復讐法の原則に立つ。1901年ペルシアの古都スサで石碑に刻まれた原文が発見された