てんでんこの表裏

 自然災害が起きた時は自己犠牲や助け合いといったものが称揚され、気持ちが鼓舞されます。また日本ではこうしたもの、特に自分勝手にならないところが社会的なシステムとして定着している、と言われたりもします。暴動や略奪も起きず、被災者がものの少ないコンビニへもちゃんと行列を作って並ぶ…。こうしたことも海外の驚きの意見とともに、メディアが一斉に喧伝していたのは記憶に新しいところ。


 思い遣りや助け合いが社会の秩序をよく維持し、より早い復興へつながるであろうことは直感的にわかります。ただ今回の震災で、地震の後一度家族のところに戻り、安全を確認してから再び職場へ戻って帰らない人。大丈夫だなと家族に声をかけてから近所のお年寄りの住むアパートの様子を見に行って遺体で発見された人。独り暮らしの高齢のお母さんがやっとの思いで避難した後に、心配して駆けつけた息子が家のあたりで亡くなっていた…。こういうニュースもよく聞きました。
 初発の地震から時間差で到来する津波の被害のあり方が、思い遣りを裏目に出させてしまう悲劇でした。


 こうしたことは津波災害の特殊性に由来するのでしょうか?この失敗を起こさせないための、三陸地方に伝わるある言葉を新聞記事で見かけました。また、数日して小田嶋隆氏もこの言葉を紹介してコラムにされていました。
 それは「津波てんでんこ」という言葉です。

 度々津波に襲われた苦い歴史から生まれた言葉で、「津波の時は親子であっても構うな。一人ひとりがてんでばらばらになっても早く高台へ行け」という意味を持つ。

読売新聞 3月28日

 小田嶋氏は、

 非常時にあって、決断を他人に委ねたり、周囲の状況に安易に同調することは、命取りになりかねない。普段から、自分の状況に合った避難の方法と経路を、自分のアタマで考えられるようにしておかねばならない。そういうことなのであろう。
日経ビジネスコラム 「ひとつになろう」より「てんでんこ」がいい

 という考察をされて、「気遣い」が何より大事/一つになって頑張ろう 一色の風潮に一石を投じておられます。


 確かに震災後に蔓延する自粛ムードにものを言う文脈でこのエピソードが用いられるのは有効だと思いました。自粛自粛と小うるさいのには私も辟易しているところです。


 ただ、今回の震災で「てんでんこ」に東京を離れ、関東を離れ、日本を離れた人たちに必ずしも暖かくはない視線が注がれていたようにも思えます。また「てんでんこ」に不安を感じて水を、ものを買い込んだ人たちにも批判は向けられました。
 「てんでんこ」の自助努力、自力救済に対して、それができない(あるいは物理的に無理な)人たちはなかなか好意的に見ることができないのでしょう。無理もないとも感じます。


 インディペンデントか、さもなくば共助・思い遣りか。たぶんこれを二律背反で捉えてしまうことが間違っているんだろうと思います。災害時には、その災害の程度や津波があるかどうかが思い遣り優先かてんでんこ優先かの判断を分けます。ケースバイケースで考えるべき複雑さがそこにあるのでしょう。
 この意味で小田嶋氏の言う「自分のアタマで考えられるように」というのが重要なんですね。


 私は油にしても水や食料にしても抑制的に行動できました。でもそれは、自分の被害が比較的小さいという恵まれた状況で、家族を抱えていないという立場で不安もある程度小さかったからだと思います。各個人の環境は違うだろうなと考えていましたので、不安の解消というところでの買いだめも頭ごなしに否定はできないなあとも。


 何が正しいかなんて単純には言えないものです。難しいなあと言いつつ、これからも考えていくしかないでしょうね…。