少し復活。お間抜けなことに、ちょっと疲れていたところで湯冷めしてしまって風邪をひいてしまったようです。おなかが痛いのはなぜかわかりませんでした。早く休むはずが三原順さんの名前を見かけたもので、そのままネットをうろうろ。無理はできないものです。
 小さい頃は風邪でもひくと結構家族に気をつかってもらっていたなあと、何だか久しぶりに実感。一人暮らしは気楽ですが、体調を崩した時などはやはり寂しいものです。慣れてますけど。
 そんな時でも何か一つぐらい気を紛らすというか楽しみは欲しくて、おかゆにちょっと工夫したりして…ただこんなでも犬を連れて外にでなければいけないのは少々きつかったです。

最後に大峰山の件で

 そういえばnucさんのところへ何かと思っていたのが残っていますね。ちょっとだけ筋だけ書きますと、確かに登りたいと言っていた人たちは私有地とか通らずにでしたら行きたいところへ行けるでしょうし、法はそれを守るでしょう。今回だって後で登った三人に咎め立てはないはずです。実は今までだって、表の参道を通らずに山へ登った女性はいたとも聞きますし、それはもう仕方がないといえば仕方がないでしょう。でも三人はメディアに喋りましたし、もともと三十数名で報道を連れて押しかけたのは示威行為というか宣伝行為でしょう。ひそかに登ることが目的ではなく、登らせないことを糾弾し問題化するのが目的の行為です。


 法との兼ね合いで言いますと、私が思い出したのは倫理と法のことでした。刑罰に関しては基本的に今の日本の法は、応報刑(目には目を)でもなければ教育刑(見せしめ)でもなく、「規制しなければならない最小限の行為に抑止効果を持つ最小限の刑罰」という功利主義的な原則に従っていると思います。この最小限の規制にかからぬところは言ってみればお構いなしになるわけで、これは自由主義につながります。
 ただしそれがむき出しの自由主義では、却ってこの刑罰の体系はうまく行かないでしょう。潤滑剤としての倫理規範があればこそ、何とかやっていけるのだと思います。これを話すと長くなるので今は略しますが、権利の主張が野放図ではぎすぎすした社会にしかならないと考えています。


 少なくとも今回の件でイダ氏側が「話し合い」を求めていたのなら、山に登る権利云々の前にやるべきことはあったと考えます。信頼関係の構築とか手順を踏んだ申し入れとか、何がしか相手を尊重する態度を見せることです。あそこの重要な意味がわからない人でも、相手に対する尊重が必要だということはわかりますよね。これは別に法で定められたものでも何でもなく普通の倫理的態度です。


 そしてむしろ彼らの主目的が宣伝行為だったとすると、それは多くの人の納得を得られずに失敗したと思います。わざわざ相手のところに出向いて主張のぶつかり合いを演出し、自分たちの権利を主張するその態度に倫理性は感じられなかったからでしょう。だからもし彼らが宣伝を目的としていたならば、法的云々の前にその試みは失敗しています。
 相手の領分を無理に侵さない、侵した場合には抗争があるかもしれないというのは、基底的な倫理という前に哺乳類をはじめとしてある程度考えのある動物では普通に考えることでしょう。錦の御旗としての「権利」に目が眩まなかったら、そのぐらい普通におわかりになるはずだったと思います。
(このへんでごめんなさい)