日本語は論理的ではないと日本語で論理的に語ること
今日はもう寝ましょう、と思っていたのですがちょっとだけ…
Rauru Block Agents氏のRauru Blog「確かに、まず日本語ではあるが」の記事
内田樹の研究室に掲載された まず日本語を を読んで考えたこと。
私も理想的にはそのように日本語教育を徹底することで論理的思考や対話能力を高められたら素晴らしいと思うし、確かにそれが部分的に可能なところもある。しかし残念なことに「ロジカルで音韻の美しい日本語の名文」というものはほとんど存在しないと言ってよい。存在したとしてもそれは「文法的に日本語である」というだけで、我々のイメージする日常的な日本語とはかけ離れたものになってしまう。我々の使用している日本語は本質的にロジカルでないし、また対話も存在しない。あるのは空気を醸成するためのモノローグの集合だけだ。
宿命的にこういう類の文章は「日本語が論理的ではない」ことを「論理的に」「日本語で」説明しなければならなくなっているところに悲劇性があると思います。
こちらの方は、それでも
日本語以外でロジカルかつ美しい文章を音読させることも重要だろう。外国人と会話するためではなく、日本語をロジカルに駆使するために。
とまとめておられるので、日本語が論理的になることは不可能とまでおっしゃっているのではないでしょうが、日本語が(ある種の)論理を組み立てることを日常的には行っていないということと、日本語に論理性がない(少ない)ということをナイーブに同一視することはできません。
日本語が日常会話において(ある種の)論理の組み立てを目的としていないとは言えるかもしれませんが、論理を表現し得ない言語などありうるのでしょうか? もしそういう言語があったとしたら、その言語の側の人は論理的な思考を理解することすらできないでしょう。 つまりはこの文脈では日本語に訳されたすべての論理的な文章は無意味、ということにもなりかねません。
「日本語」を日本語で語る時には、常にこうした自己言及の罠(というより悲劇)が待ち受けているのだと思わされました。この方が「非の打ちどころのない正論」とおっしゃっている当該論文には接したことがありませんが、その論文が「論理的に」「日本語で」日本語をロジカルにしようとする努力には疑問が感じられると「非の打ちどころなく正論を組み立てている」のならば、それは極めてロジカルな日本語なのだと思います。