新聞社の話(これはひどい)
既存メディアに寄りかからないコミュニケーション(「風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ」より)
博物館のオープンを記念して、2007年12月に上智大学が中心となってシンポジウムを開くのだが、このことを多くの人に知っていただくために、発掘チームが某新聞社に相談にいった。すると、新聞での紹介やシンポジウムに新聞社が協賛する場合、2500万円〜3000万円を新聞社に支払わなければならないという話しになって、そんな大金がある筈がないということで、私のところに相談が来た。
ハゲしく憤る。
新聞社は「協賛」の名の下に数千万円のお金を取っているという話です。
ここに書かれたことが本当なら、新聞取るのを止めていてほんとによかったと思います。何が文化活動だと言いたいです。上智大学ももっと怒っていい。(大手)新聞はもう終わっていたということです。
情報とその流通は確かに(権)力になるものです。意識してその力を振り回す傲慢な者は制限されなければならないと感じます。かつてはそれが政府や為政者ということだったのですが、今やそこにメディアも加わって好き勝手…というのが見えてきてしまっています。どちらの暴走も許せるものではありません。社会正義を語るのならこういう姑息な金儲けはやめるか、「協賛」ではなく「広告」、PRのページとはっきり書くように。そして文化活動と正しく思えるなら、社員の給料減らしてでもお金を出して協賛してみせるべきです。
「スピリチュアルはなぜ流行るのか」
買って読みさしていた磯村健太郎『〈スピリチュアル〉はなぜ流行るのか』(PHP新書)を読了。真面目に書いた本でしょうね。今の状況を後で振り返る時には結構参考にもなるでしょう。ただその分だけ一過的な感じも受けます。
途中で放ってあったのは、ネット関連の話題が出てきて、
従来の「宗教」の枠にとどまらず、なにか見えないものとつながる感覚=スピリチュアリティについて考えていくと、現代社会で無視できないものにぶつかる。わたしたちの日常生活の一部となってしまった電子空間だ。
とか何とか、ネットでの交流は特別な「純粋に精神的な交流」で超越的な部分があって、それでブログでスピリチュアルなつながりができて…といったことが書いてある部分に何だかなと思ってしまったからでした。この部分は愛知学院大の伊藤雅之氏の論文一本と自分の体験・思ったことだけが元で、現代を読み解くのにネット話は欠かせないとか思ったんだろうなあと少し興ざめ。
思いなおして読んでみると、まあこの部分短いですし、これを読み飛ばしても問題なさそうなので不問に。
筆者は宗教社会学的立場を取ると宣し(もともとは新聞記者の人です)かなり文献も読まれたようで、立場の定位と資料収集では好感がもてる態度でやられています。この姿勢では変なものも出てこないとは思いました。
ただ筆者が宗教を人の造りしものと考え、それを外形的に探ろうと決めている以上、そこに出てくる図式は単純なものになってきます。この本でも
(これこれの歴史的背景) ↓ こういう社会になっていて ↓ こういう個人がいて ↓ こういうニーズがあって ↓ 求められているスピリチュアリティーとはこんなもの(「ケア」)
大体この筋が書かれているんですね。ストレートなだけに、読者はどこかに違和感を持つと全部おかしくみえてしまう。でもひっかかりがなければ、最後まで読んでわかった気になれる。一つ一つの段階の論旨、それを補強する資料・実例、そういったものの説得力が問われると思いました。
逆に言いますと、見通しが先にありきの感も否めません。それで私はさっき触れたネットのこととか、社会観のところとか、いくつか強引に感じるところがあったんです。(仮組みの結論にはめていこうと資料を集めたような気がする…という印象もなくはないです)
興味を持たれた方はお読みになって損はないと思います。ただスピリチュアリティーの受容(需要でも)を「ケア」という面でまとめるのは、あまりにコンテンポラルな結論かなとは感じました。時代の雰囲気に即したところではそれは確かにありそうなのですが…
なぜ、という問いにちゃんと答えようとしているのはプラス。でも結論を急ぎすぎている感がマイナス。そういう読後感でした。