uumin32007-07-13

 日本は宗教教育がとても弱いとか言われることもありますが、どうしてどうして一般の生活の中で(宗派・教団にこだわらない)宗教的と言える考えが浸透していることに気づかされることもしばしばです。それはたとえば言葉の中にひっそりと隠れていたりします。
 「縁」(えん・えにし・ゆかり)などその最たるものではないかと思います。辞書的な意味でここには「人と人を結ぶ、人力を超えた不思議な力。巡り合わせ*1」という意味が含まれ、運命論者ではなくとも、合理的にものごとを考える人であっても、この語がちゃんと理解されている限りそこに込められた宗教的な含意は了解されていると考えられます。


 人と人の出会いを偶然と言ってしまうのはた易いのですが、そこに何らかの意味を見るという視点を知っていればこそ、一つ一つの出会いを大事にしようという気にもなるのではないでしょうか。また、縁あって出会うことがあるのと同時に、縁で別れるということもあります。そういう諦観も含んで、この言葉は仏教語の「縁」をも越えた宗教的な意味を私たちに開示してくれているのではないかなと時に感じるのです。情緒的に語られる「縁」には男女の仲をいうものがもっぱらなのですが…

 縁は異なもの味なもの(浄瑠璃丹波与作』近松


 深緑そめけむ松の縁(えにし)あれば(『後撰和歌集』恋歌5)

 『うる星やつら』でしたか、時代小説のパロディという意図があったはずですが

 人は出会い 別れ そして再びめぐりあう
 西国に散った人々の運命が 今ここに集結せんとしていた…

 素直に感じ入るところではないのはわかっていても、この名調子に思わず気持が盛り上がってしまったことを憶えています。出会いは物語の基本ですから。すべてが偶然という認識であったなら、物語はどれだけ索漠としたものになるでしょう。


 さてこんなことを書いてみたのも、どうやらid:Maybe-naさんが日記を閉じられたようだったからです。たまたまのことですが私は氏の日記の記事を読んで「はてな」で日記を書こうという気になったものですから、こうなってみると「偶々」を越えた「縁」のようなものを考えてみたくなったという次第です。
 最近でもよく読ませていただいていたところが閉じられたり、また新しく自分にとって興味深いところを見つけたり、いろいろな縁の絡みがあります。こういうのが一人一人にあって、そしてそれらが複雑に交錯しつつ大きな流れになっていると私は考えたいと思います。またささやかでも、自分が書いたもののごく一部でも、それがどなたかに縁となって何かを生んでいたらいいなあと願ってもいます。
 Maybe-naさんの中の人とも、またどこかでお会いできれば幸いです。どうかお元気で。

*1:三省堂提供「大辞林 第二版」より。gooの検索から