不思議少女

 十年ぐらいも前の頃でしょうか、メディアで「不思議ちゃん」とか「不思議少女」とかいう語が一時よく聞かれたことがあります。少々ネガティブな意味も込められていたと思われるその言葉は、たとえば鈴木"charlie"謙介氏によって次のようにも説明されています。

 不思議少女とは、いわゆる「個性」を重んじ、「人と違うことはいいこと」だと考える少女たちだ。彼女たちがメディアで注目されはじめた1996年以前にも、サブカルチャーの分野ではそういう少女たちをよく見かけた。「アート系」とか「原宿系」と呼ばれていた少女たちだ。彼女たちはその後、ビジュアル系やコスプレイヤーに拡散していくことになる。実際、ネットアイドルの中にはそのような少女たちが多いのも事実だ。
社会学の理論で斬る「ネットの不思議」 InternetWatch連載コラム 第8回より)

 でもそういう特殊な意味でなく、文学作品からマンガ、アニメに至るまで「妙な女の子」と言われて当然のような「不思議少女」は数限りなく登場しているのでは、と私には思えます。それはおそらく男性の視点による「理解できない少女」の表象、さらに言うなら「理解できないけど興味が引かれる > 恋の予感的なものが感じられる少女」として描かれた人物造形ではないかと考えるのです。


 おそらくメディアで言われた「不思議少女」は、自らが変わった存在であると(あろうと)意識した(といいますか「個性派」になろうとした)人たちを多く含んだと思われますが、ここで言う「不思議少女」は、本人からすれば自分は不思議でも何でもないというような当たり前の少女たち、ただそれが異性の視点からそう捉えられ(見え)てそう描かれた少女たちを指します。
 代表例を挙げるならばやはりナボコフの『ロリータ』などもそうでしょうか。少女ドロレスはハンバート教授視点によって偶像化されていますが、結局は後に若い男とくっつくただの「若い女」であったわけです。それを受け容れ難く思うのはハンバートの勝手。どこまでも彼は幻想のニンフェットを求め、ドロレスはそうではなかった(ありえなかった)のでお話は悲劇的結末に終ります。
 男性側の一方的な思いいれで描かれる少女。そしてそれが自分の理解を超えているということが「不思議と思える表現」をとってそこに表されている…そういう物語は一つや二つすぐに思い浮かぶのではないでしょうか?


 それがネガティブに振れずむしろ感傷的に見えることが多いのはおそらくそこに恋のような好意のフィルターがあることが感じられるからで、それがなければ(もしくは感知できなければ)そこに表れるのはただただエキセントリックな女性(少女)ということになるはずです。
 恋というのにも人それぞれの考え方、定義があるでしょうが、私はそれを自分の心の状態(ほとんどそれだけ)を指すものだと考えています。魂が「憧れ」て、そうやって自分を離れて相手のところにふらふら行ってしまう状態になるのが恋。それは想像の相手が自分の中にしかいないようなもので、だからこそ儚く、そして自分にとってだけ美しく大事なものなのでしょう。

 物思へば沢の蛍もわが身より あくがれ出づる魂(たま)かとぞみる
 (『和泉式部日記』)

 それが恋と呼べるようなところまでいかず好意にとどまるとしても、とにかく相手へのポジティブな感情、興味を引かれる部分は必ずあるはずです。さもなければ「不思議少女」には見えず「変な女の子」にとどまるでしょうし、文学的なものは生れないと思います。
 単純に言えば恋(のようなもの)で目が曇って「不思議に見えている」ということなのですが、案外この系譜は異類婚姻譚のあたり(狐女房とか天人女房とか)まで辿れるんじゃないかなという気もします。


 そしてこれはおそらく男性の「対女性」という幻想だけでなく女性の「対男性」にもあることです。女性向けのさまざまなマーケットが広がってきた今やそれは明らかになっているのではないでしょうか。
 一方的な思い込みによる相手の美化というところ、あるいは恋と言ってもよいかもしれませんが、そういうものは大概の人が経験したことがあるものでしょう。後から思い返せば恥ずかしくて顔から火がでるかもしれないようなそういう思いがうまく詩情豊かに描かれればそれは立派な作品になるわけで、おそらくそうしたものが人の琴線を揺らすことになるのではないかと思います。


 メディアで採り上げられた「不思議ちゃん」が何故揶揄されていたか、それは単に彼女たちがあざとく下手な役者に見えてしまっていたからでしょう。いささか酷な言い方かもしれませんが、もとから一人の人間の中で構築される「(完璧な)幻想」に真似て勝てるはずもなかったのです。

 芝居がかった行為にたいする反感、そういう感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口にいえば、芝居がへたなのである。
 (福田恆存『人間・この劇的なるもの』中公文庫)

 この世に恋する人間がいる限り不思議少女(あるいは不思議青年等々)は永遠に不滅です。でも同時にそんな不思議な人ははおそらく現実には存在しないのです。誰かのことが不思議に思えたら、それはもしかしたら恋の始まりなのかも…