オリンピックの英雄

 北京五輪、真の英雄のため「より遅く、より低く、より弱く」をモットーに

 【7月18日 AFP】真の五輪精神は、代理人とスポンサーのバックアップを受けた金メダリストではなく、最下位選手にこそ宿る。(以下略)

 もちろん思い出すのは『ゼッケン67』です。


(参考)⇒昭和37年ブログ「教科書(ゼッケン67)」

 教科書の名作中の名作といえば
「ゼッケン67」をはずすわけにはいかないでしょう。
光村図書,小学4年生の国語です。


東京オリンピック、陸上男子10000m競技をめぐる物語でした。
(以下略)

のーものものもおとこのこ♪

 野茂が評価されたのは彼が成果をあげることができたからですが、もし彼が凡庸な(それでももちろんプロは凄いのですが)選手であったならば、ただ単に「世渡り下手」の人ということになってしまったでしょう。彼の企図が評価されなかったとしたら、いつまでもメジャーに挑戦する後輩は出てこなかったかもしれません。
 でももしそんなケースでも野茂に続こうという選手が出たのではないかと思いたいところもあります。
 後生畏るべしですから。

ぶち壊す

 中学校の英語の授業で、当時の地方の状況では大した教材も無く(買ってももらえず塾もなく)、せいぜいがNHKラジオの語学講座を聞けたぐらいなのですが、何人かだけわりにまともな発音を最初からする子がいました(むしろ先生よりそれっぽく聞える感じ)。
 ところがそういうのを必ず揶揄するのが出てくるというのが田舎の悲しさ。妙な「口真似」をされたりして、出た杭は一人一人叩かれて微妙に萎縮。結局2年、3年と進むに従って流暢な発音は避けられるようになり、結局皆似たようなジャパングリッシュになっていったのを憶えています。


 あれは「ものすごい悪意」があったというよりは、傍で照れを感じてしまって(かたはらいたい状態)反射的に緊張をぶち壊したくなった行為だったかもしれません。でもその帰結は奇妙な平準化、情けない不毛さでした。


 照れて止めるぐらいならもとより腰が座っていないからたいしたものではない、という意見にはある程度同意しますが、それを言い訳にして人の足を引っ張ることを正当化するようなら(大人になった今こそ)そういう子供は叱りたいですね。
 突出を隠微に許すまいとする同調圧力は学校環境で最大に働いていた感じがあります。流動性がほとんど望めない以上しかたがないことでしょう。いざとなったら他へ行く!と言える人には社会にでた後はこういう状況が若干緩和されていくものだと思いますが、それでもどこへ身を置いても決して皆無とは言い切れないのが悲しいところです。
 海外で子供時分の教育を受けたわけではないので少しの情報と想像でしかないのですが、なぜかアメリカではそういう圧力は低く、イギリスあたりでは日本と同じようにある、という印象があるのですが果たして実際はどうなのでしょう…