嫌韓という現象

 昨日は熱くなって東浩紀氏のエッセイ『「嫌韓流」の自己満足について』の読後感を書きましたが、落ち着いて書いた方がよさそうに思いましたので書き方を変えて再度批判を提示いたしたいと思います。


 結局のところ東氏は「嫌韓」というものを何か人が目指す目的であるように考えて「評論」なさったので、ああいうエッセイになってしまったのでしょう。「嫌韓」を目的として捉えたからこそ、そこに「擬似ナショナリズム」だの「嫌韓厨自身の自己満足」だのという個々人の心理に還元した理由付けをしなければならなかったのだと思います。それはあまりに安易なラベリングであり憶測の域をでないもので、評論としての質を大きく下げているように感じます。しかも必要以上に対象を卑小化するような態度というのは、エッセイとしてもいかがなものでしょう? もちろん「嫌韓」に反発を感じている向きには受けが良いのでしょうが…


 私は嫌韓という一つの目的があるようには考えません。そこにはあくまで韓国がネガティブに語られているという結果としてのまとまりしかありません。あえていうなら、それは様々なベクトルがそこで一つにまとまっているように見える類の現象であり、ことによると手段としての表現ではないかとも考えます。
 そこには一人一人様々な考えがあり、現象としてのまとまりの背後には多様な方向性があると思われます。昨日私が提示した考え方も、あくまで私なりの一つの解釈以上のものではないかもしれません。

 …きちんと議論して「より正しい」(と思われる)知識を得ることによって日韓関係を正常なものにしようと考えている…
 むしろそこでは、彌縫的に上っ面だけ合わせて「日韓関係を改善」するような「いかにも嘘くさい」友好的態度が意図的に廃されているのであって、つまりは議論を戦わせて歴史認識の最初から再構築しようというラジカルに誠実な態度がある…

 少なくとも私は上記のような動機をもっていくつかの掲示板(メインは2002年頃のヤフー)で韓国のことを調べ、議論しようとしておりました。傍から色眼鏡で見れば、私もただの「嫌韓」に見えていたのかもしれませんが。


 東氏が書いておられる「動機」、他者を貶めて優越感にひたろうとする心根などより、たとえば次の引用にでてくるような感情などが嫌韓的態度の背後に見えるような気もいたします。それは「騙されていたと感じた者の怒り」のようなものです。(次に引用する文は直接「嫌韓」について書かれたものではないのですが、これに類する心情を「嫌韓」側から聞いたことは何度もあります)

 世代的なものもあるかもしれないが、「僕達」は常に騙されてきた。自分ではないものに。
 人道的なものが善。国家的なものは悪。軍隊なんてとんでもない!・・・例を挙げれば止まらない程の善がパッケージ化されて刷り込まれた。


 それがネットの発達と共に、他の正義もあることに気付いちゃった。同時にこれまでの正義の裏側も教えられた。国家とは(教えられてきたような)抑圧をかける敵対的存在では無く、自らが構成する共同体であること。9条でなく自衛隊が日本を守ってきたこと。中韓からは教育により国家戦略として嫌われていること(韓は戦略か微妙だが)。共産の核はきれいって妄言かましてた事。そしてホワイトバンドがおかしい事(もう全部同列併記だ)。
 これまで刷り込まれた絶対的正義が実は相対的正義であった事に気付いてしまったら、それまでの反動が出るのは当然だ。(相対的正義ですらないものもあるし。)騙されたと知った者は他の被害者(まだそれと自分では気付いていない者)に、自分の言葉で警報音をあげようとする。
soulwardenさん@ニセモノの良心

 この引用にも見られるように、騙されていた(と思った)反動は様々な方向に表現されるものです(その射程はサヨク的な方向にむいている気がいたしますが…)。「嫌韓」によって表現されるものもその中の一つの方向なのではないでしょうか? ちょうど学生運動が盛んだった時に、既成の体制に対する怒りが若者を突き動かしたのと同じように、「これが正しいことだ」と進歩的文化人や一部のメディアが押し付けていた(形になっていた)既成概念の枷を外した反動がそこにあるように思われます。それは知識人タブー、メディアタブーとして「聖域化」されていた(おそらくそれは若者に息苦しさを感じさせる)「韓国・朝鮮の正しさ」に一石投じてみるということでも表現されるのです。
 大江健三郎が「なぜ自分には帰るべき朝鮮がないのだろう」と涙を流して持ち上げ、大島渚が「朝鮮人と少年だけが真に苦悩することができる」と盲目的に信じていた「被害者」としての韓国・朝鮮人の正しさが、絶対的なものなどではないと気付かれた時、それはタブーを破るひそかな喜びをも伴い、勢い良く吹き出てしまう「反動」でもあるのでしょう。


 ここで「嫌韓」という表現の背後のベクトルを全て挙げることはできません。たとえばそれはメディア・リテラシーを持ちつつある一人の人間の表現かもしれません。またたとえばそれは初めて海外旅行に行って日本という自分の国の存在を意識した時のような、国への帰属意識の一つの表現かもしれません。ただそれら多くのベクトルが、必要以上に韓国・朝鮮に気を遣うことをあえてしないという方向で出ているのは確かです。それが「嫌韓」というラベリングを引き寄せてしまうのでしょうが…。


 あえて「嫌韓」というようなラベリングをされても、つまり暗黙のうちに責められているような表現を引き受けてでも、言うべきことは言おうと思って発言していた方も多く存じています。またこれは私事ですが、私が積極的に歴史問題あたりで投稿していた頃、むやみな「反韓国」に冷静に反論していた在日の方と仲良くなりまして、オフ会でお会いしたこともございます。何も気を遣って譲歩するばかりが友好の道ではないと思います。むしろ言うべきは言うという態度を示さないと、いつまで経っても状況は変わらないという認識が私を含めた多くの人にありました。


 「公平を期すために言えば」確かに根拠に薄い議論で韓国を貶す向きもみられますし、ネガティブな情報だけで韓国人や在日韓国人への嫌悪感が醸成される場面も確かにありました。ですがその不誠実な態度を以ってすべての韓国批判を封じる(もしくは調子を弱めようとする)ことはもはや無理なのです。まして真っ当な批判をひっくるめて「中傷」などと言ってしまう手は有効ではありません(むしろ逆効果でしょう)。
 上辺を糊塗するようなやり方では日韓関係はこじれる方向へしか進まないところに至っていると私は思います。何らかの遠慮、慮りによって批判を封じ込めることなく、タブーを設けずに議論することのみが長い目で見て「嫌韓」的態度をなくしていく有効な手段なのではないかと考える次第です。

他者としての…

 嫌韓に関しての記述を見て回ったときに、こちらのGreat Spangled Weblogさんで興味深い記述に出会いました。

…つまり韓国・朝鮮ネタがよくないのは、そこに「他者」の境界を設けようとしているからだという。
そしてどうしても「他者」としたいならその根拠をはっきりさせよという結論となる。(略)


「他者」をつくることを忌避するのは、マルクス主義の考え方だというのを的場昭弘:『マルクスだったらこう考える』(ISBN:4334032818)という本で知った。以下はP.176-177。

 さて、ここで「粗野な共産主義」を引き合いに出したのは、私的所有社会(言い換えればそれは資本主義社会そのものなのですが)はかならず「他者」をつくり出すという特性があるということ、逆にいうと「他者」をつくり出すのが、私的所有社会ということです。「粗野な共産主義」を廃止し、共同所有にするといいながら、女性を排除することで、むしろ徹底して「他者」をつくり出しているのです。


 マルクスは「粗野な共産主義」を、共産主義とは認めていません。彼のいう共産主義とは、誰も排除されない社会、誰も「他者」をつくらない社会であるということです。

このような考え方は反差別主義であるように見えるが、一方、「他者」という存在を意識の外に追い出してしまったことで、事実上の「他者」に対しては容赦ない攻撃を認めてしまうことになるのではと危惧される。もしそうであれば、攻撃すべきでないと考える相手は「他者」ではないことを強調するであろうし、攻撃してよいかどうかの価値判断に「他者」との境界を持ち出すことになるかもしれない。


これに対して、「他者」の存在をなくすことはできない。むしろ、人は「他者」に対して何をしてもよいわけではない。「他者」を排除するのがいけないのであれば、それは「他者」をつくりだすことではなく、「排除」という行為に正当性がないからだ。そのように考えるべきではないか、といった反論が考えつく。


元にもどって、韓国・朝鮮ネタに対して警告するのであれば、私なら、「『他者』であることを意識させるとポグロムが起きる」ではなく、「どのような『他者』の境界であってもポグロムを正当化する境界はない」としたい。「ポグロムを正当化する境界」の存在を否定してくれていないところが違和感の元なのだと思う。


 「彼ら(They)」というカテゴリを設けてしまうことが「われわれ」との間に差異を作り出すもといであるというのは、サイードの『オリエンタリズム』(過去日記)をはじめ、ポスト・コロニアリズムで注意を促されていた態度だと意識はしておりました。
 またこの韓国ワッチも「他者を意識する」>「自分(自国)を意識する」という文脈を持つものとの認識もあったのですが、この「他者」という問題とマルキシズムをつなげて考える発想は全く持っておりませんでしたので、この記述には大いに刺激を受けました。
 もちろんこれで何か話すには自分でいろいろ跡付けてみなければなりませんが、マルキシズムが他者を作るのを忌避するということと、またそれが矛盾なく暗黙裡に他者を攻撃するのにためらいがないということについては、上記ブログでのこの一節のひらめきに何か蒙を啓かれたような気がします。


 私は「他者」を人間存在が解消する日がくるとは思っておりません。この「他者」の問題は宿痾でもあり、また少なからず人間の基底的なあり方に関わる重要な問題だとも考えています(つまりすぐに切り捨てられるようなものではないということです)。
 他者に対する態度というもので、自分の中のたどたどしい考えをちょっとは深める契機になってくれると思えます。見つけられてすごく良かったと思う記事でした。


※蛇足ですが、ナショナリズムを一方的に悪と考える人はナショナリズムをよく考えていない人だと思います。また、単純にナショナリズムを一方が放棄すれば、周囲は連帯してくれると考えるのはナイーブすぎます。いかに韓国・朝鮮の「ウリ」意識が強いか、それを知らずにこの「嫌韓」問題に加わるなどというのは無理な話です。それなのに、日本のサヨクの方々はまともに韓国のナショナリズムを採り上げたり問題視しようとしていません。それがその思想の最大の弱点ではないかと思えるのですが…