他者としての…

 嫌韓に関しての記述を見て回ったときに、こちらのGreat Spangled Weblogさんで興味深い記述に出会いました。

…つまり韓国・朝鮮ネタがよくないのは、そこに「他者」の境界を設けようとしているからだという。
そしてどうしても「他者」としたいならその根拠をはっきりさせよという結論となる。(略)


「他者」をつくることを忌避するのは、マルクス主義の考え方だというのを的場昭弘:『マルクスだったらこう考える』(ISBN:4334032818)という本で知った。以下はP.176-177。

 さて、ここで「粗野な共産主義」を引き合いに出したのは、私的所有社会(言い換えればそれは資本主義社会そのものなのですが)はかならず「他者」をつくり出すという特性があるということ、逆にいうと「他者」をつくり出すのが、私的所有社会ということです。「粗野な共産主義」を廃止し、共同所有にするといいながら、女性を排除することで、むしろ徹底して「他者」をつくり出しているのです。


 マルクスは「粗野な共産主義」を、共産主義とは認めていません。彼のいう共産主義とは、誰も排除されない社会、誰も「他者」をつくらない社会であるということです。

このような考え方は反差別主義であるように見えるが、一方、「他者」という存在を意識の外に追い出してしまったことで、事実上の「他者」に対しては容赦ない攻撃を認めてしまうことになるのではと危惧される。もしそうであれば、攻撃すべきでないと考える相手は「他者」ではないことを強調するであろうし、攻撃してよいかどうかの価値判断に「他者」との境界を持ち出すことになるかもしれない。


これに対して、「他者」の存在をなくすことはできない。むしろ、人は「他者」に対して何をしてもよいわけではない。「他者」を排除するのがいけないのであれば、それは「他者」をつくりだすことではなく、「排除」という行為に正当性がないからだ。そのように考えるべきではないか、といった反論が考えつく。


元にもどって、韓国・朝鮮ネタに対して警告するのであれば、私なら、「『他者』であることを意識させるとポグロムが起きる」ではなく、「どのような『他者』の境界であってもポグロムを正当化する境界はない」としたい。「ポグロムを正当化する境界」の存在を否定してくれていないところが違和感の元なのだと思う。


 「彼ら(They)」というカテゴリを設けてしまうことが「われわれ」との間に差異を作り出すもといであるというのは、サイードの『オリエンタリズム』(過去日記)をはじめ、ポスト・コロニアリズムで注意を促されていた態度だと意識はしておりました。
 またこの韓国ワッチも「他者を意識する」>「自分(自国)を意識する」という文脈を持つものとの認識もあったのですが、この「他者」という問題とマルキシズムをつなげて考える発想は全く持っておりませんでしたので、この記述には大いに刺激を受けました。
 もちろんこれで何か話すには自分でいろいろ跡付けてみなければなりませんが、マルキシズムが他者を作るのを忌避するということと、またそれが矛盾なく暗黙裡に他者を攻撃するのにためらいがないということについては、上記ブログでのこの一節のひらめきに何か蒙を啓かれたような気がします。


 私は「他者」を人間存在が解消する日がくるとは思っておりません。この「他者」の問題は宿痾でもあり、また少なからず人間の基底的なあり方に関わる重要な問題だとも考えています(つまりすぐに切り捨てられるようなものではないということです)。
 他者に対する態度というもので、自分の中のたどたどしい考えをちょっとは深める契機になってくれると思えます。見つけられてすごく良かったと思う記事でした。


※蛇足ですが、ナショナリズムを一方的に悪と考える人はナショナリズムをよく考えていない人だと思います。また、単純にナショナリズムを一方が放棄すれば、周囲は連帯してくれると考えるのはナイーブすぎます。いかに韓国・朝鮮の「ウリ」意識が強いか、それを知らずにこの「嫌韓」問題に加わるなどというのは無理な話です。それなのに、日本のサヨクの方々はまともに韓国のナショナリズムを採り上げたり問題視しようとしていません。それがその思想の最大の弱点ではないかと思えるのですが…