再びシン・ガンスのこと

 数日前に書いた「シン・ガンスという楔」にコメントをいただきました。「逆にシン・ガンスを引き渡しさえすれば拉致問題解決→国交正常化は可能っていうシナリオですね。」というものですが、これには少々面食らいます。
 確かにそういう読みをしている方々がある程度いるとは存じていますが、それはまったく私の読み筋とは違っているわけで、私の考えでは彼が日本で「金正日に命令を受けた」と証言する危険性を北朝鮮が軽くみるはずもないと思うのです。しかもシン・ガンスの身柄が引き渡されたとしても、それは問題解決の入り口に過ぎません。
 シン・ガンスの過去の工作を明るみにできれば、北朝鮮側にさらなる問題解決の行動を正面切って突きつけることができるとは思われないでしょうか。英雄扱いしている工作員(相当のことを知っている人間)を、いくら因果を含めたとしても「容疑者として他国に引き渡す」度胸が今の金正日にあるとは考え難いです。(あるいはもっと追い詰められてからならあり得るかと…)


 「金に目が眩んで」というケースは常にありえるかもしれませんが、最初の小泉訪朝の時のように、そういう思惑はうまくいくと限ったものではありません。シン・ガンスの引渡しは、どう考えても日本に切り札を送ることです。


 進行中の政府間協議で、現時点で北側がシン・ガンスを引き渡す気配はないと思いますが、シン・ガンスによる幕引き説の方はこれも芝居とご覧でしょうか。私はそこまでややこしい推測は取ろうと思いません。
 生存者帰国を要求 実行犯引き渡しも 日朝政府間協議

 日本と北朝鮮は政府間協議2日目の5日、北京市内のホテルで拉致問題に関する協議を行った。日本は拉致問題の具体的進展を目指して生存者の帰国や、拉致実行犯とされる北朝鮮工作員辛光洙(シングァンス)容疑者らの引き渡しなどを要求した。北朝鮮側は「拉致問題は解決済み」との基本姿勢を崩さず議論は平行線をたどった。昼の休憩を挟んで続いた協議は計約9時間に及び、今回の期間中に拉致協議を再度行うことで合意した。


 拉致協議の日本代表を務める梅田邦夫外務省アジア大洋州局参事官は協議終了後、記者団に対し「拉致問題が国交正常化にとって非常に重要だと伝えた。基本的に双方の立場を詳しく説明し合った」と述べた。


 北朝鮮代表の金哲虎(キムチョルホ)外務省アジア局副局長も終了後「われわれは拉致問題解決のためあらゆる誠意と努力を尽くした。日本とわれわれの見解と立場には依然大きな差がある」と記者団に指摘した。


 協議で日本側は、政府認定の拉致被害者について(1)安否不明の11人の再調査と生存者の早期帰国(2)真相究明(3)容疑者の引き渡し―を重ねて要請。拉致された疑いが濃い「特定失踪(しっそう)者」34人についても情報提供を求め、タイ人女性の拉致疑惑も提起したもようだ。(後略)
産経新聞

 オッカムの剃刀でしょうと、そう思っています。

『刀狩り』

 御家人さん@日々是チナヲチで「調和社会に祝砲一発、激闘武装農民。」という記事を読ませていただきました。

 2006年は武装農民がトレンドになる、ということを以前書いたかと思いますが、旧正月の大型連休も明け切らぬうちにその「武装農民」が躍り出てきてしまいました。


 ただし今回は官民衝突ではなく村同士が打ち物を手にしての大喧嘩。中国語でいう「械闘」という伝統行事です。いや行事ではないのですが王朝時代以来の悠久の歴史が育んだ村落同士の闘争のカタチなのです。


 「械闘」は境界線争いとか水争いなどに起因することが多いのですが、今回は境界線を跨ぐ形で通っている道路の補修工事を巡るトラブルが発端になっており、やはり数千年の伝統を踏んだ形となっています(笑)。

 現代中国はますます不穏な形勢となっているようです(詳しくはリンク先を)。
 さて、引用部分で「械闘」という村同士の闘争について歴史あるものと紹介されていますが、日本でも古来そういった類の村同士の大喧嘩はあったわけです。最近読みました藤木久志『刀狩り 武器を封印した民衆』岩波新書からちょっと引きます。

 一五七三年(元亀四)の春先のことである。近江(滋賀県)の甲賀郡二カ村と、伊賀(三重県)の阿山郡一カ村の間で、国境の山の草刈り場のナワバリをめぐって、「弓矢」を交わす激しい武力紛争が起きていた。さながら「村の戦争」であった。
 これを知った両国の近隣の村々からは、村の侍たち十人ずつが仲裁にのり出し、国境の山あいで「野寄合」を開いて、山の利用は「立合」つまり入会(いりあい 共同利用)とすることや、よき(斧)・かまなど山道具の使用を制限することなどを細かく決めた、「異見」=「判断」という、仲裁裁定案を双方の村に示して、ようやく和解にこぎつけていた。こうして、弓矢紛争の原因そのものは民事事件として決着がついた。

 今の日本でこうした戦国時代さながらの村落どうしの武器をとった争いがあろうとは思われません。さすがに中国と思ってしまうわけです。またヒートアップした争いの仲裁というものも古来きちんとあり、お互いに回復不能な殺し合いに発展しないようにセーブがかけられるというのも、日本のムラ社会の知恵と取ることもできそうです。


 さて藤木氏のこの本の主眼の一つは、秀吉の刀狩りによって民衆が武装解除されていたという「伝説」を資料を駆使して打ち消すものです。つまり『カムイ伝』などで見られた丸腰で卑屈な農民、いざという時には農具で蜂起するしかないような農民像も誤りであったとするのです。上記引用の続きはこうなっています。

 ところが、それとは別に、この「村の戦争」のさなかに。甲賀郡の村人たちが、伊賀の村人たちから、集団で脇差を奪ったことが、刑事事件として重大な問題になった。仲裁に奔走して「走舞」と呼ばれた世話人たちは、奪った脇差をもとへ返させる措置をとった。そればかりか、脇差を奪った者のうち一人を、ただちに村追放(召失)とし、一年後には村に復帰(召返)を許す、期限付きの追放刑という特異な制裁を決めていた。
「弓矢相論」とまでいわれた「村の戦争」そのものの罪はなにも問われず、山のナワバリ争いはもっぱら民事事件として処理された。それなのに、脇差を奪ったことだけが、刑事事件として大きな問題とされたのであった。

 中世には、ひとの脇差を奪うのは、相手の名誉を傷つける、名誉侵害の罪にあたる、とされていた。村の男たちはふだん脇差を指して山仕事に出ていた。それほど、腰に刀を帯びるという習俗は、村の日常に行き渡っていた。

 中世以来、村々の百姓の男たちは武装するのが慣わしでした。その武装は日常生活の中で、害鳥獣の駆除や村の治安、ナワバリ争いや防衛に自在に使いこなす「自検断」と呼ばれる権利でした。

 …三〇年ほども戦国の日本に暮らして、ことに九州の世情に通じていたはずの、宣教師ルイス・フロイス『日本史』がこう書いていたからである。


 日本では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになっており、彼らはこれを刀と脇差と呼んでいる。彼らは、不断の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することを、すこぶる重んじている

 本書では秀吉の刀狩以降、近世江戸幕府になっても、さらには明治廃刀令の後にも完全な武装解除は行われていなかったということが示されます。それが実質的なものになったのは、三度目の刀狩、マッカーサーによる武装解除であったというのです。


 それではなぜ武装した民衆による蜂起や事件が頻発しなかったのか?
 藤木氏はそれを、戦乱の時代が続いたことにより人々が平和を希求し、手元の武器を自ら封印することによって武装の争いを抑制したためと捉えます。人々の自制の心が長い平和を実現したということです。農民一揆などにおいても、武具を用いずに農具を争いに用いるのは「自制の作法」でしたし(猟や害獣駆除のために農民が所持していた鉄砲の数は領主・武士側を凌駕していました)「一揆が鉄砲を使わない限り、領主も鉄砲を使わない」という不文律が徹底していたのです(むしろ農民側に対し過剰な攻撃があったとされれば、領主が御公儀から咎められるという状況)。
 刀狩や廃刀令は「名誉の制限」という形で「身分」を明らかにするためといったニュアンスを多く持つものでした。ところが秀吉の刀狩に際しての一篇の法令をなぜか鵜呑みにして、歴史学はこの刀狩についての精査を怠ってきたのです。

 十六世紀末の日本の刀狩りによせる研究者たちの通念は、およそ次のようなものであった。豊臣秀吉の政権は、分裂していた戦国の国家の軍事統合に成功して、すべての暴力装置を集中独占すると、その力を背景に、武装解除をめざして、農村からあらゆる武器を徹底的に没収し、民衆を完全に無抵抗にしてしまった、と。
 この見方は、いま、ほとんど国民の通念ともいえるほど根強く、「強大な国家、みじめな民衆」という通念は、十七世紀以後の徳川政権というアジア的な専制国家像を形づくるのに、決定的な影響を与えてきた。

だが、この通念ははたして事実であったか。「みじめな民衆」像ははたして実像であったか。

 最新の史料を駆使し、豊かな史実の中に一つの「新しい歴史像」を浮かび上がらせるという意味で、この本はとてもおもしろいものでした。歴史好きの方に対してだけでなく、おすすめの本です。