ごはんができたよ

 今日の4時過ぎ、ラジオをつけるとすぐNHK第一で『ごはんができたよ』が流れてきました。でも瞬間、ボーカルの声が違い、誰が歌ってるんだろうと気になりました。矢野顕子よりも若い女声です。歌い方を矢野顕子にひどく似せた感じで。アレンジが変えられていましたから、この歌もカバーされるだけの年月が経ったんだとそう思いました。
 カバー曲ならもっと自分の歌い方をすればいいのに、声帯模写じゃあるまいしとも思っていたら、「♪楽しかったんだ今日も。嬉しかったんだ今日も…」のあたりだったと思いますが、急にその声帯模写が入神の出来になって、アレンジが同じだったら矢野顕子と違いがわからないと思える声に。
 物真似でもこれは凄いなと聞いていると、どうも女声が二人。一人で二人分の音をとって合わせているというよりは、別の声が二人いるようでしたので、最初に歌った女の子よりももっとよく似せた子がいて、二人でカバーしているのかな…と最後まで聞きました。
 曲紹介が入って「矢野顕子アンドユキ」とアナウンスされ、似ているも何もやっぱり(一人は)矢野顕子だったんだとわかったのです。ではもう一人の「ユキ」って? 歌を歌っている大きくなった娘さんがいたっけ…。
 と、それだけは疑問が残りましたが、検索してみるとYUKIという(名前は聞いたことがある)女性ボーカルの方が合わせていらっしゃったのでした。


 『はじめてのやのあきこ』CD (March 8, 2006)


 リリースされたばかりじゃないですか。知らないのも当然でした。
 久しぶりに『ごはんができたよ』が聞けて、懐かしいばかりでなくやはりいい歌だなと思えたのはラッキーでしたが、それこそちゃんと自分の歌を歌っているYUKIさんには自分なりの歌い方をして欲しかったです。矢野顕子に似せるくらいなら、全部彼女が歌ったほうがいいにきまってますから。


 …知らないのですが、YUKIさんはいつも矢野顕子風に歌っているのでしょうか? それならちょっとこういう感想も失礼かなと思いますけど。

差別と虐殺

 sumita-mさん@Living, Loving, Thinkingの「最も怖いのは同胞であり隣人であるということ
 自他の区別、「私たち」と「彼ら」の成立が差別の端緒であるというところはほとんど私が考えてきたところと同じように(私には)思われます。
 ただその考えの歩を進められて「虐殺」を考えられるところあたりから結構違ってくるのは、参考になるところでもあり言葉を差し挟みたくなるところでもあります。とりわけ

 虐殺の可能性というのは、私たち近代人の宿痾ともいえるものだ。

 というように帰結するような筋立てをとっておられるところには、私のみならず突込みを入れる方がでてこられるだろうと思うのです。
 近代以前は虐殺がなかったのか、もしくはあったとしてもそれは異なる種類の虐殺であったのか。こういうところに疑問が持てるからです。


 自分がアイデンティファイするものがより単一化してきているのが近代であって、それがより容易に虐殺に結びつき易い条件を整えるというお話の筋だと思いますが、また同時に人権意識の高まりがあり異なる者への情報をより得易くなっているのも近代です。虐殺の可能性もしくは事実が、近代で特に高まっているというストーリーは確かなものなのでしょうか。


 虐殺というものを振り返って考えた時、そこに差別(心)そして他者への恐怖があろうということには異議は無いのですが、私は差別というものがすべて虐殺につながるものであるというようには思っておりません。虐殺という事態が危惧されるため、差別(心)を無くすことでそれを解消しようという方向性は、確かに間違ってはいないけれども何かそのままには受け取れないところです。何かそこに欠けたファクターがあるのではないかと思うというのが一点、また「私たち」と「彼ら」の成立が差別の端緒であればこそそれを解消するのは容易なことではないと考えるのが一点、そんなことを思っています。


 関東大震災朝鮮人などの集団殺害が起き、阪神・淡路大震災でそれが起きなかったことに、私は何か意味を見つけられるのではないかと考えております(まだわからないのですが)。この二つの震災の時を比べて、たとえば差別心の克服があったのか、国へのアイデンティファイのあり方が違ったのか、近代性の減少があったのか、他者への恐怖心を起させない何かが出てきていたのか…。


 関東大震災朝鮮人虐殺の意味を薄めるために阪神・淡路大震災を持ち出すものではありませんが、自分を振り返って今またカタストロフが起きたとき、後者の方の対処により自分が近いと思ってしまうのは事実です。
 これら一つ、二つの事例を単なるエピソード主義的に消費しないためにも、比較して考えることは大事なのではないでしょうか。


 いずれにしてもとても考えさせられる興味深いsumita-mさんの記事でした。

愚痴

 Schwaetzerさん経由、zaikabouさん@日毎に敵と懶惰に戦う「みなさん、blogって是々非々で読んでるよねえ?」という記事

 特定の人のblogで批判とか擁護とかすると、途端にに「あっち側」「こっち側」みたいにレッテル貼りする人っていますけど、そんな単純じゃないよねえ。


 例えば大石英司タンのところ読んでいても、田中康夫勝谷誠彦日垣隆の批判は話半分で読む、とか、散人先生のところ読んでいても、農村批判は「はいはいクマクマ」するとか、Jonahさんのところをいろいろ関心しつつ読んでいても、あんまり中韓をおもんぱかり過ぎでそれはどうよって記事は「ハハハハ、こやつめ」とか、愛・蔵太さんの記事にいつも注目していても時々「先生先生、ちょっと落ち着いて」みたいな。


 なんか大石英司タンのところ愛読してると「じゃあおまえ、田中康夫批判も同意か」みたいなこと言う人、困るんだけど。高みに立って偉そうに裁定するって態度じゃなくてもさ、もっとこう、精一杯努力して是々非々で取捨選択するみたいな態度、みなさん取ってますよね?いや、すまん、ちょっと愚痴だこれは。

 同じ愚痴を私も言いたいところです。
 面白いと思えるところは別にどちら側とか限定できるものじゃないですし、もちろん私には私の偏りがありますから別に満遍なくとかじゃないですけど、何か自分の立場や殻なんか作ってその範囲内だけしか動かないっていうのは損だと思います。
 ただ、そうやって動いてても「党派性」みたいなのを見られることがあるだろうというのは意識してしまってますから、何かそれを避けようと動いてみたりしちゃったんですよ。でもそれは窮屈だし、結局偽りだと思えたからそれをまた撤回してみたり。結局揺れ動いているんですね、情けないですけど。


 でもたとえば自分がよく読ませてもらってるところ同士がちょっとごちゃごちゃして、それに乗っかる人も大勢出て、さてどうしましょう…というのはつい最近でもありました。愛・蔵太さんのところはよく行きますしコメントも何度か書きました。Jonahさんは当代江北日記を結構読ませていただいていて、最後のあたりでは質問してお返事いただいてました。uki-gumoさんにはわりに最近コメントいただき、やり取りがあったばかりでした。この御三方を含んで「わっ」となった時には、やはり是々非々で細かく見るしかなかったです。一言挟んだのですが、結局拡大したのでそれ以上何も言えませんでしたけど。ちょっと困惑しますね、こういうときは。


 自分のところも結構いろいろな立場の人に突っ込まれてます。そんなにそれを疎かにした憶えはないと言いたいんですけど。だってbluefox014さんとdrmccoyさんの両方から突き上げを受ける(←ジョークです。失礼)んですよ。単純な右派左派じゃないですよ、私は。
 ただ、特によそさまのところにコメントした時など(自分のところでも何度か)、少なくとも今この話をしても通じないなと判断したとき、さっと切り上げてしまうことはありましたね。それはちょっとずるいかな。でも不誠実にしているというより、大人の知恵と言ってもらいたいです(笑)落ち着いてからまた別のアプローチがあれば、それにお付き合いするのは吝かじゃないですよ。


 とまあ、凄く共感できる愚痴を伺ったので、あわせて愚痴ってみました。

もの言うこと

swan_slabさん@+ C amp 4 +より

昨年来からずっと引き続いている”内的な価値観”同士の相克というlazarus_longさんの問題意識には、私も非常に関心があって、ときどき考えてみているんですが、おそらくインターネットにおける討議モデルについてのコンセンサスがいまいちとれていない現状に問題があるのかもしれません。


しばしば、議論というのは、勝った負けたじゃないんだ、という規範が取り上げられることがありますが、これはひとつの前提にたった命題だと思われます。つまり、討議とは真実追求の手段である、と。


ただ、主観的には勝ち負けの世界であることは否定しがたい、と思うんですね。あまり議論の客観性を強調すると、そこで前提とされている規範に無自覚になる可能性があります。


それでも、双方にとっても社会的にも有益な議論をしたいのはたしかですし、勝った負けたの主観的な一貫性にあまりにも絡めとられてしまうと、自分が間違っているかもしれない、ということを認めたがらなくなる。

 自戒したいと思います。

訴訟モデルと比較してみると、ネット言論の欠陥は非常にはっきりしています。


第一に、争われている事柄について適用すべきルール(規範)が不明確である、ということです。


これはまさにlazarus_longさんのいう内的絶対性(言い換えればjustice(普遍的正義)と対置される意味でのgood(善))の相克状態であることを意味するものです。


さらに私なり言い方をかえれば、俺ルールで勝手に双方が議論を始めてしまっている状況です。

 考えさせられます。


 後付けの理由で議論(らしきもの)に勝とうというのはありがちですし、それは人情でもあるでしょう。でもできればそういう態度は意識して取りたくないと思っています。最初から勝ち負けを争うことと思わなければ、自分の主張を引っ込めることにそれほどためらいはありません。ただこの態度を相手に同様に求めることは可能かということには悲観的ですが…
 そして勝ち負けというように意識すると、最初からものを言うのがためらわれてしまうでしょう。反射で何か口走って問題をごちゃごちゃにするのも避けるべきでしょうが、少なくとも「もの言えば唇寒し」よりも「もの言わぬは腹ふくるる業なり」というのを重く見るのが、ネットでのやり取りかなと思っています。

議論のあり方(「もの言うこと」の続き)

 相手のことが「わかる」と感じることはありますし、「わかって欲しい」という願いも当然のようにあります。ただ、自分が捉える相手(他者)についての了解は、常に自分の思い込みに過ぎないかもしれないというおそれを忘れてはいけないと思います。他者理解の構図は、他者の思考への明確なアクセスを保証するものではないからです。


 同じ問題を見つめることはお互いに理解しあうことへの一歩ですが、まったく同じ視線というものはありません。理解しあうということも、近づくということと考えるべきであって、重なるということではないのです。
 自分に近いものの見方をする人でさえ完全にはわからないのに、どうして離れた意見(と思われる)人の考えていることをすべて自分で見通せると考えられるのでしょう。どうして他者を安易に自分の中で再構成してしまうことができるでしょう。
 それは他者の理解ではなく、他者の卑小化による所有です。そしてその所有できる部分と言えば、今まで自分の中にあったもので捏ね上げたあやつり人形に過ぎないのですから、それは結局は自分の限界を示していることに他ならないでしょう。


 気に入らない相手の心のうちを卑小化してしまうというのは誰にも経験があることかもしれませんが、少なくともそれを公然と文章にして人目にさらすのは恥ずかしいことです。またそれは相互理解の否定という姿勢を見せているものに過ぎないとも考えられます。これでは議論になりません。


 ですから、ネット上に限らず議論を交わす際には「相手の意図」とか「動機」などに触れない形の議論でなければ、結局は不毛になってしまうと考えます。議論する両者の「外」にあるもの、お互いに同じものを見ることができるものを対象にして議論はなされるべきだということです。そしてその場合にのみ、同じものを見据えることの結果として何らかの理解が構築できる(可能性がある)ように思えます。


 そのやり取りの方法については、その場や題材によっていろいろ変わってくることでしょうが、同じ土俵に乗ること(場の条件が定まっていること)を前提にするやり取りでなければ、数回のやり取りの後に方法論の違いを感じて議論を止めることを自由にした方がよいと考えます。つまりネット上の議論などであれば、話がかみ合わない(かみ合いにくい)と感じたことを理由に、話の終了を提案できるようにしたらよいのではないかと…。
 勝ち負けとか逃げる逃げないとかの妙な声抜きで、この終結がやり易い雰囲気を作ることができたならば、どれだけ不毛な議論が減ることかと思います。


 ということで議論のあり方について二つの方向を考えてみました。こういう考えを集めて共通の認識にできるならば、不毛なやり取りを最小限にして議論を成立させるすべが見えてくるのではないかと考えています。