議論のあり方(「もの言うこと」の続き)

 相手のことが「わかる」と感じることはありますし、「わかって欲しい」という願いも当然のようにあります。ただ、自分が捉える相手(他者)についての了解は、常に自分の思い込みに過ぎないかもしれないというおそれを忘れてはいけないと思います。他者理解の構図は、他者の思考への明確なアクセスを保証するものではないからです。


 同じ問題を見つめることはお互いに理解しあうことへの一歩ですが、まったく同じ視線というものはありません。理解しあうということも、近づくということと考えるべきであって、重なるということではないのです。
 自分に近いものの見方をする人でさえ完全にはわからないのに、どうして離れた意見(と思われる)人の考えていることをすべて自分で見通せると考えられるのでしょう。どうして他者を安易に自分の中で再構成してしまうことができるでしょう。
 それは他者の理解ではなく、他者の卑小化による所有です。そしてその所有できる部分と言えば、今まで自分の中にあったもので捏ね上げたあやつり人形に過ぎないのですから、それは結局は自分の限界を示していることに他ならないでしょう。


 気に入らない相手の心のうちを卑小化してしまうというのは誰にも経験があることかもしれませんが、少なくともそれを公然と文章にして人目にさらすのは恥ずかしいことです。またそれは相互理解の否定という姿勢を見せているものに過ぎないとも考えられます。これでは議論になりません。


 ですから、ネット上に限らず議論を交わす際には「相手の意図」とか「動機」などに触れない形の議論でなければ、結局は不毛になってしまうと考えます。議論する両者の「外」にあるもの、お互いに同じものを見ることができるものを対象にして議論はなされるべきだということです。そしてその場合にのみ、同じものを見据えることの結果として何らかの理解が構築できる(可能性がある)ように思えます。


 そのやり取りの方法については、その場や題材によっていろいろ変わってくることでしょうが、同じ土俵に乗ること(場の条件が定まっていること)を前提にするやり取りでなければ、数回のやり取りの後に方法論の違いを感じて議論を止めることを自由にした方がよいと考えます。つまりネット上の議論などであれば、話がかみ合わない(かみ合いにくい)と感じたことを理由に、話の終了を提案できるようにしたらよいのではないかと…。
 勝ち負けとか逃げる逃げないとかの妙な声抜きで、この終結がやり易い雰囲気を作ることができたならば、どれだけ不毛な議論が減ることかと思います。


 ということで議論のあり方について二つの方向を考えてみました。こういう考えを集めて共通の認識にできるならば、不毛なやり取りを最小限にして議論を成立させるすべが見えてくるのではないかと考えています。