どこまで信じ何をすべきか

 昨日の松永氏の告白に対しいろいろな意見を目にしました。前歴を伏せて社会活動をしていたことの是非や、許せる許せない、当事者じゃないのに許すという言葉で語れるのか、はっきり心情を述べて納得させて欲しい…皆さん考えることは様々です。
(意見が多くよせられているところを二つだけ紹介させていただきます)
オウム憎けりゃことのはまで(404 Blog Not Found)
ことのはの背負ったもの----許さなければならないこと。許してはならないこと。(BigBang)


 私はある人の過去をどう思うかまで他の人に強制することはできないと思っていますし、ある人の属性についていろいろな感情を持つことから人は逃れられないだろうとも感じています。偏見がまったくない人のことなど、私がもともと想像できるはずもないですが…
 ただ感情は人それぞれであっても、制度的な差別待遇が正しいか正しくないかは社会的に決めることができますし、それはできるだけ無くす方向にむかうべきだと考えます。結局、排除できる差別とは制度のことに他ならないのです。


 他者を信じる信じないなどについては、各々の判断以外にありません。でもそれとは異なる次元で、社会的にどう動くかについては合意が形成できますし、それは為すべきだと思っています。
 ちょっと前に多くの人の興味を引いた、あのルワンダの虐殺に関する話。異なる者への恐怖をどう捉え、いざという時にどう動くかという話だったはずですよね。松永氏に関しては、その異者が「オウム真理教」という形で私たちに現れているということです。私たちは恐怖心で「オウム信者」を虐殺(排除)するのではないか?という疑問こそ、ルワンダの事実に寄り添って今捉えられるべき問題でしょう。


 距離的に遠いアフリカの話、時間的に遠い朝鮮人虐殺の話、これらの話であれば概ね「異者の排除はいけない」という合意が作られるように見えますが、これが「私たちの隣人を殺したかもしれないオウム」の話のときに「別の話」となるのかどうか。


 皆さんと一緒に私が考えたい問題はそれなのです。

他者の問題 

 「他者」を語ること(つまり外部を語ること)は自分の捉える「私たち」(内部)を語ることであり、それは政治的なことなのかもしれません。それゆえ、上に書いたような視点に同調してくださる方が少ないということかも。 でもそれもなんだか…


 いろいろな考え方があっていいですし、同時代だから見え難い*1ということなのかもしれません。もう少しいろいろ見て回ってから何か書きたいと思います(クリステヴァがらみとか…)。
 生々しい問題だけに、直に語るよりもふさわしい書き方にすべきかもしれないとか考えております。(政治的ならなおさら)

*1:antonianさんからコメントで御指摘を受けました