公立高の東大合格者増

東大合格数“異変”ゆとり教育“1期生”

≪地方公立「増」、常連私立「減」≫
 東大の入試戦線に異変が起きている。前期日程の合格者をみると、これまで受験に強くランキング雑誌の常連だった中高一貫型の私立高校が軒並み減少し、逆に地方の公立高校が躍進した。新学習指導要領下で学んだ生徒たちが初めて臨んだ今回の入試。公立校は学校週5日制の完全実施などゆとり教育の流れや、生徒数の減少に伴う高校の再編統合といった逆風にさらされてきた。躍進校はこうしたハンディを見据え、地道な対策を積み重ねていたようだ。


 ≪首位に動きないが≫
 出版社「大学通信」によると、今年の東大合格者の高校別ランキングの首位は25年連続で、開成(121人)が堅持。麻布、灘、ラ・サール駒場東邦(駒東)といった常連組が並んだ。ただ、問題はその増減だ。灘が32人減、開成が31人減、駒東が18人減と、中高一貫型の私学が軒並み合格者を減らした。


 逆に岡崎(愛知)が10人増の33人、一宮(同)が12人増の28人、富山中部(富山)は15人増の27人、金沢泉丘(石川)は16人増の20人と地方の公立進学校が合格者を伸ばした。(後略)
産経新聞 2006/03/19 東京朝刊)

 これはちょっと前のzakzakでも採り上げてました。
「ドラゴン桜」影響!?東大合格、開成灘駒激減の怪  地方県立「予備校化」で躍進

 東大戦線に異状が発生し、関係者の間で波紋を広げている。今年は開成や灘など有名私立高校の合格者が激減する一方、地方の県立高校が大躍進を果たしたのだ。一体、何が起きているのか。専門家らは、「医学部志向が進み、東大離れが進んでいる」と指摘。さらには、「マンガの影響」なる声まで飛び出した。(後略)
zakzak


 親の年収格差が私立に行ける子いけない子をつくり、それが学力格差になって格差の再生産される社会を作る…といったストーリーで「東大合格者」のデータを使っていた方たちは、その傾向に反するデータとして上記記事をどう読み解かれるのでしょう?


 たとえば東大合格者数とか有名大学合格率で高校をランク付けするということ自体、たいして意味は見出せません。あえてそこからその高校の何かを読み取ろうとすれば、学力とか進学に関して学校(教師)が生徒の面倒をよく見ているかどうかぐらいなもので、それは必ずしもかけたお金の多寡に比例するものではないと考えます。


 教育を費用対効果でどこまで判断できるでしょうか。「いい学校」「良くない学校」があるとしても、それは「どこかの大学への合格率」などで判断されるものではなく、どれだけ生徒が後から「学んで良かった」と思えるかということでしょう。それは単純に数値化などできるものではないと思います。


 私立が「合格率」などの数値に拘らなければならないのは、営業的側面からわからないではありません。ただそれだけのことなのに、親がお金を掛ければ「いい学校」に入れるんだ、などと誤った煽りをまともに受け取る人はできれば少なくなって欲しいと思います。


 お金を掛けることと学力の間の相関は、ある一定のところまでは確かにあろうとも思いますが、それを超えれば後はお金の掛け方と成績の間にはっきりした関係などないでしょう。それは、ある程度までは「書籍」を読めば読むほど賢くなるといった話と同じで、一定の水準を超えてしまえば、むしろ読めば読むだけ「悪く」なる場合だってあるのと比べられることではないかと思います。

他者の痛みはわかるのか?

 中里一日記より

2006年03月16日
痛みはわかるものではない
 「人の痛みがわかる」という表現が流行りはじめたのは、いつからだろう。ここ数年のような気がする。
 こういう表現はいったん慣用句になってしまうと、あまり深く意味を考えなくなってしまう。私もついこのあいだまでは、この表現に目くじらを立てることはなかった。が、今は、猛烈に腹立たしい。
 先週の金曜日から腹痛が続いている。入院中にはいろいろ辛い目にあったが、この痛みは、入院中のどの辛さにも劣らない。この日記を書いているいまも、痛みが続いている。おかげで痛みを、過去の記憶としてではなく、現在進行形で把握できる。
 現在進行形の痛みは、わかるものではない。襲われるものであり、耐えるものだ。「人の痛みがわかる」などという表現を使う輩は、なにひとつわかっていない。

 「人の痛みがわかる」という言葉が考えも無しに軽く使われるとすれば、私もそれは由々しき問題だと思います。しかし同時に、他者の痛みがわからないとすればすべてのコミュニケーションの基盤が崩れ、それは「独我論」に至らざるを得ません。


 この方の「痛み」はもちろんこの方にしか直接認識できないものです。しかし考えをその「自意識の特権性」から始めてしまうならば、私たちのすべての相互理解は誤解(もしくは欺瞞)だと言う結論に至らざるを得ないのです。
 むしろ問題は、私たちは他者の痛みがわかるという信憑を持っている、というところから考え始めるべきなのだと思います。その「痛み」がわかると信じるからこそ、私たちはお互いの理解が可能だという信憑も同時に持てるのです。


 この「痛み」の理解の問題は、生命倫理学でも重要な主題の一つです。具体的な例としては、実験動物の是非や堕胎の当否の問題にかかわってきます。動物や胎児が「痛み」を感じるか否か、それが問われ、その理解をめぐって議論がなされている局面があるのです。


 人間の「種主義」に異論を唱えるピーター・シンガーの言葉を引用します。

 ちなみに,人種的平等への要求の論理が人間の平等にとどまらないことをべンサムははっきりと意識していた。彼は次のように書いている。

 暴君以外に誰も抑圧することのできなかった権利を,人間以外の動物たちが獲得しうるときが来るかもしれない。肌が黒いことを理由にして,1人の人間が加害者の気まぐれに任せられているのを座視することはできない,ということがフランス人にはすでに分かっている。人間以外の,感覚を持つ動物についても,足の数,体表面の毛,仙骨の末端を理由にして,そういう被害にあうことを座視できないとされるときが来るかもしれない。越え難い一線をきめているものとして,ほかに何があるのか。理性的能力か,それとも,ひょっとして言語能力なのか。しかし,生後1日,1週間,さらには生後1カ月の幼児と比べても,大人の馬や犬の方が比較にならないほど会話の相手がつとまるだけでなく,理性的でもある。だが,馬や犬がそういうものでないとしても,そんなことが何の役に立つのか。問題は「推論を行えるのか」でも「話せるのか」でもなく,「苦しむことがあるのか」なのである。

 確かに,べンサムが言っていることは正しい。ある生物が苦しむとしたら,その苦しみを考慮に入れずに,他の生物における似たような苦しみ(といっても,おおまかな比較ができるとしての話だが)と平等に扱わないとすれば,それを道徳的に正当化するのは不可能である。


 そこで,唯一の問題は,人間以外の動物も苦しむかどうかということである。大抵の人がためらうことなしに同意するのは,犬や猫のたぐいの動物が苦しむことはありうるし,実際に苦しんでいるということである。この種の動物に対する悪質な虐待を禁止する法律によっても,このことは当然と考えられている。個人的には,このことに全く疑いの余地はないと私は思うし,一部の人が公然と投げかける疑いの念に,まじめにお付き合いするのは無理だと思う。『動物,人間,道徳』の編集委員や執筆者たちも同じように感じているように思われる。というのは,問題は1度ならず取り上げられるが,そのつど疑念は払拭されるからである。とはいえ,これは根本的な論点なので,他の動物も苦しむと考えるいかなる根拠があるのかを問うてみる価値がある。


 手始めにもっともふさわしいのは,どのような理由で,人間は誰しも他人が痛みを感じていると思うのかという問いである。痛みは意識の状態,「心のできごと」なのだから,直接観察することはできない。身をよじらせたり,叫んだりするという仕草であれ,あるいは心理学的,神経生理学的記録であれ,どのような観察記録をとってもそれは痛みそのものの観察記録ではない。痛みは人が感ずるものであり,他人が痛みを感じているのだということは,様々な外的徴候から推論することしかできない。他人が痛みを感じているかどうかについて,懐疑的になるのはそもそも哲学者だけだということからすると,明らかに人間の場合にはこのような推論が正当だと考えられているのである。
 同じ推論が他の動物の場合には不当であるという理由があるのだろうか。見た目で他人に痛みがあると推論できるような事柄のほとんどは,とくに哺乳類や鳥類のような「高等」な動物に見いだすことができる。身をよじらせたり,キャンキャンと泣いてみたり,痛みの原因を避けようとしたりするなどといった仕草は,現にある。それだけでなく,周知のように,これらの動物とは生物学的な類似点があり,見過ごすことができない。神経系統はわれわれと類似しており,調べてみればその機能も同じだということが分かる。
 だから,これらの動物が痛みを感じうるのだと推論することの根拠と,他人が痛みを感じているのだと推論することの根拠との間に,たいした違いはないのである。



「私は痛い」というのは,話し手が痛みを感じていることの証拠として考えられる最良のものではなく(嘘をついていることもありうる),唯一のものでないことも確かである。仕草と,その動物が生物学的に人間と似ているという知識が一緒になって,その動物が苦しんでいることの証拠にふさわしいものとなるのである。ともあれ,言語的な証拠は,他の証拠と矛盾するときには受け入れられないであろう。誰かが大やけどをして,身悶えしたり,うめいたり,やけどをした箇所が何かにぶつからないように細心の注意を払ったりして,苦痛があるようにしていながら,後になって全然痛くなかったと言ったならば,その際の結論は,彼は痛くなかったのだということではなくて,彼は嘘をついているとか健忘症だということになるだろう。



 すると,ほかの哺乳類や鳥類が苦しんでいるとわれわれが思う根拠は,他の人間が苦しんでいると思うのと,きわめて類似している。考えるべき問題として残っているのは,進化の段階をどれほど下ったところまで,この類比が成り立つのかということである。人間から遠ざかれば類似性が弱まっていくのは明らかである。もっと正確にするには,他の生物のあり方について詳しい調査が必要である。魚類,爬虫類やその他の脊椎動物なら類似性は強いが,牡蠣などの軟体動物になると類似性がはるかに弱くなる。昆虫ならさらに困難になり,現在わかっている範囲では,昆虫が苦しみうるのかどうか知りえないと言うべきであろう。


(『バイオエシックスの基礎 欧米の「生命倫理」論』、H.T.エンゲルハート、H.ヨナス他、加藤尚武・飯田亘之編、東海大学出版会、1988、pp.205-220。より抜粋)