言葉は、頭の中でシナリオのように組み立てられてから発せられるものではない
「言葉は、頭の中でシナリオのように組み立てられてから発せられるものではない」ということを意識されたことはあるでしょうか?
それが書き言葉であれ話し言葉であれ、完全な「文章」、首尾一貫したまとまりが脳内のどこかに形成され、それを声や文字で出力する…というイメージを無意識に抱きがちだと思うのですが、それが誤りであることはちょっと自分の行為を振り返ってみると容易にわかることでしょう。
私たちは書きながら考え、喋りながら会話を組み立て、そういう言語化の行為の中で再帰的に自分にフィードバックしつつさらに言葉を生み出していくのです。
書くのが苦手な人
ご自分で書くのが苦手だと思われている方の少なからぬ人は、頭の中でちゃんとまとめてから文字にしなければいけないという思い込みがその筆を縛っているように見えます。誰もそんなことはできていないのですから、もっと気楽に書くという行為を始められたらよいのではないかと思います。
確かに原稿料をいただくような文章、評価される論文、心に訴えるような作品には「きちんとした構成」が欠かせないものです。でもそれは、最終的に推敲され調整された文章だからそう見えるのであって、多くは最初にあまりきちんとした形を取らぬまま書き付けられたものだと言ってよいでしょう。中には「職人」的に自由に出てくるままに言葉を並べてそれが最終形になるような「芸」を持っている人もおられますが、それはいつでもできるものではないですし、できたからと言っていつでも内容のあるきちんとしたものになっているとは限りません。あくまでもそれは例外なのです。
対話
話し言葉のやり取りというものは、たとえば朝の挨拶などのように半ば習慣化したもの、身近な人とのお互いを確認するためだけのやり取りのようなものもありますが、普通の意味での会話は「説得」や「自己主張」でない場合、当たり前のことですが全体の見取り図などはありません。お互いの言葉によって次の言葉が生み出され、場合によっては想像もしなかった結論へと至るようなそういう自分を(ちょっとでも)変える可能性のある相互行為、それが「対話」という名にふさわしいものだと思っています。
最初から結論が決まっている(変えるつもりもない)言葉を相手に投げかけるだけなら、それはもともと対話じゃないんです。対話は、相手と自分の間に「専一に相手のものでもなく自分のものでもない言葉」が紡ぎだされていく、というイメージで捉えるといいのではないかと思います。
フィードバック
何かもやもやっと考えの傾向があって、曖昧な言葉の連想があって、それが言葉のつながりとして表面に浮上(結晶化?)してきたとき、それは自分の言葉であっても、他者の言葉からうける「ああそうか体験」と同じように自分に気付きを与えてくれます。またそういいことばかりでもなく、自分で自分の言葉に違和感を感じることだってあります。
自分の気持ちや考えに「ぴったり」の言葉はなかなか出すことが難しいものでしょう。そして大体の場合、自分の言葉にフィードバックをうけて、ある方向に自分の気持ちが動いていってそれが「ぴったり」っぽく思える、ぐらいのことの方が多いような気もします。これが「夜中に書く手紙」効果ですね(笑)
言葉が詰まっている人
そうは言っても、言葉がすかすかの人よりいっぱい詰まっている人、言葉の取り回し、扱いに慣れている人の方が「書く」にしろ「話す」にしろ有利ではないかと言われればもちろんそうです。例のあの内田先生の「自動書記」発言もここらへんのことを言っていると思われます。
ただ忘れてはならないのは、書くことも対話も「勝ち負け」ではもともとないということです。そういう色がついて見える場面も多々あるのですが、まあそう喧嘩腰になってもしかたがないです。一歩引いて見てみたら、たいていほんのちょっとでも自分に益があることが見つかるものです。それでいいと思います。そして少しずつでも自分の中に成長があれば、それは「言葉が詰まっている人」になるための一歩でしょう。
あやしうこそものぐるほしけれ
というようなことを、ふと思いついた「言葉は、頭の中でシナリオのように組み立てられてから発せられるものではない」という一節から半自動書記してみました。そろそろ暑さが頭にきつつありますので、このへんで(ぐだぐだにならないうちに)おしまいにします。
オシムさんのあれ
個人的には凄く期待が持てます。でもこんな暑さの中、ほとんど交替がいないということは「死ぬまで走れ」というメッセージなのでしょうか…
最初の一、二戦は、チームとしての体をなさないかもしれない(特に疲れてきた後)というぐらいの覚悟を以って見守りましょう。