あなたと私は同じで違う

 「あなた(たち)と私は同じだ。同じに考えて欲しい」
 「あなた(たち)と私は違う。違ったものとして認めて欲しい」


 このどちらも人は求める時がありますし、異なる状況では同じ人がどちらの願いも言ってしまうのかもしれません。ここだけ抜き出せば相矛盾する内容に見えますが、本当にどちらもありの時があるんじゃないかと思います。


 たとえば知的障碍を抱えた子供を普通学級に入れたいと願う親御さんは「同じに扱って欲しい」とそこで思うのでしょうし、また同時に「ハンディキャップの分だけは庇って欲しい」と先生や学校に対して希望することもあるでしょう。それをわがままだと切り捨てる人もおられますが、そのケースごとの思いは考えればわかることができるだろうと感じます。原則として同じ存在と認めて欲しい。個別には扱いを考えて欲しい。それは何も特別のことではなく、私たち誰もが願い、そして部分的にも現実にあることなのですから。


 これは男女同権を言いつつ女性としての扱いを受けたいという考え方とも相似でしょう。たとえばこの問題は、男女同権を「何が何でもみな一緒でなければならない」と解釈しさえしなければ矛盾ではなくなります。その同権は基本的人権に関わること、そして労働や義務・権利などいくつかの社会的な側面での同権の要求と切り分けておけば(どうしても土俵に上げろとかいう方向に向かいさえしなければ)、それをわがままだと言う人はいないのではないでしょうか。


 弱者の側というものを標榜する方々の中には、思いを共感しようとするあまりここらへんの捉え方の違いに鈍感になっている人がいる(というよりそういう時がある)のではないかと思えます。過剰な共感で代弁者となっているときなど、何より本当に代弁などできるのかという冷静な反省が必要でしょう。(そしてもしかしたらその言葉は、私自身にも跳ね返ってくる時もあるのかもしれないですね)


 miyakichiさん@みやきち日記 「愛に性別は関係ない」の正体 より

異性愛者と同性愛者の最大の違いは、好きになる相手の性別です。その差異を矮小化し、「あの人たちも自分たちと同じようなもの、だから容認すべきである」という論調に持って行くのが「愛に性別は関係ない」論の正体でしょう。


基本的に、そこにあるのは「他集団を容認してあげよう」という善意です。けれども、容認する根拠として「あの人たちも自分たちと同じ」と強調したがるのは、結局、「自分たちと異質なものだったら認めてやらない」という排他性の裏返しにすぎません。


あたしが「愛に性別は関係ない」という言い回しを好きになれないのは、そういう理由からです。

 miyakichiさんの本意にかなわない引用かもしれませんが、この記事を読んでいろいろ考えてしまいました。


 これはかなり前に引かせていただいたものですが、折に触れて思い出すものです。
 spanglemakerさん@Great Spangled Weblog■[時事]扇動はいけません より

「他者」をつくることを忌避するのは、マルクス主義の考え方だというのを的場昭弘:『マルクスだったらこう考える』(ISBN:4334032818)という本で知った。以下はP.176-177。

 さて、ここで「粗野な共産主義」を引き合いに出したのは、私的所有社会(言い換えればそれは資本主義社会そのものなのですが)はかならず「他者」をつくり出すという特性があるということ、逆にいうと「他者」をつくり出すのが、私的所有社会ということです。「粗野な共産主義」を廃止し、共同所有にするといいながら、女性を排除することで、むしろ徹底して「他者」をつくり出しているのです。


 マルクスは「粗野な共産主義」を、共産主義とは認めていません。彼のいう共産主義とは、誰も排除されない社会、誰も「他者」をつくらない社会であるということです。

 このような考え方は反差別主義であるように見えるが、一方、「他者」という存在を意識の外に追い出してしまったことで、事実上の「他者」に対しては容赦ない攻撃を認めてしまうことになるのではと危惧される。もしそうであれば、攻撃すべきでないと考える相手は「他者」ではないことを強調するであろうし、攻撃してよいかどうかの価値判断に「他者」との境界を持ち出すことになるかもしれない。


 これに対して、「他者」の存在をなくすことはできない。むしろ、人は「他者」に対して何をしてもよいわけではない。「他者」を排除するのがいけないのであれば、それは「他者」をつくりだすことではなく、「排除」という行為に正当性がないからだ。そのように考えるべきではないか、といった反論が考えつく。


 元にもどって、韓国・朝鮮ネタに対して警告するのであれば、私なら、「『他者』であることを意識させるとポグロムが起きる」ではなく、「どのような『他者』の境界であってもポグロムを正当化する境界はない」としたい。「ポグロムを正当化する境界」の存在を否定してくれていないところが違和感の元なのだと思う。

 これは単なる一つの例で、マルクス主義関係の考え方だけがこういう錯誤に嵌ってしまうのだとももちろん思いません。ただここに書かれているような、性急に「他者」を無くしてしまえというご意見がリベラル筋によく見られるのは確かにも思えます。


 そこには、弱者と立場が違うということ自体を「罪」か何かのように考えてしまう傾向がありはしないでしょうか? 自分が恵まれていることに罪悪感を感じるというか…。それが私には錯誤に思えてならないのです。違うという認識から考えればそれが排除にしかいかないというのは臆断で、違うという前提を頭から崩すのが問題解決へ唯一の道、というのはおかしいのではないかと。


 ただ、こういうことを「恵まれた立場」であろう私の側から言えば傲慢にも思えるだろうなとは(実は私も)感じてしまいます。最後に、こういう私にちょっと救いにも思えた記事を引用します。武州無宿・健次郎さん@Midnight Homeless Blueの「ボランティアをはじめようとしている方へ」です。

この先、なにかのボランティアをやろうとしている人、あるいはなにかの社会活動、奉仕活動、市民運動などをしようとしている人にお願いがあります。今、現になにかの活動をしている人でもいい。どうしてもお願いしておきたいことがあります。


どうか、まず自分が幸せになってください。周囲の人や、ましてや自分自身を不幸にしないでください。


どうか、まずごくふつうの生活を大切にして、その基盤の上に成り立つ活動をしてください。すべてを根こそぎつぎ込んだり、活動のためにすべてを犠牲にしてしまわないでください。


どうかどうか、自分をマイナスにして相手をプラスにするような「ゼロサム・ゲーム」だけは演じないでください。


あなたが不幸になることを望む者は誰もいません。あなたが不幸になる代わりに誰かが幸せになることを喜ぶ者は誰もいません。あなたが不幸になることをぼくは赦さないし、まずあなたが幸せであることをぼくは望みます。


どうか、まず身近なところで幸せになってください。あなたが幸せでなかったら、他人を幸せにしたところでなんの意味があるでしょうか? あなたが幸せでないのに、どうして他人を幸せにできるでしょうか?


他人に幸せを分け与えられるのは自分を幸せにできる人だけなのですから、どうかどうか、まずご自身が幸せになってください。なにか大切なもの、そしてまた誰か大切な人を犠牲にしないでください。切実にそう望みます。

 ずっと以前にこちらを見つけて、その当時何度かコメントしていたと憶えています。しばらく中断なさっていたようで私も遠のいていたのですが、今年に入って偶然また出会いました。今、健次郎さんもひどく参っておられる状況なのですが、そんな時にも(そんな時だからこそ?)こういうことをおっしゃっていただけるのは本当にすごいことだと思います。こういう偶然のつながりがあればこそ、ネットで他の人の意見を知ったり何か発言することが無駄ではないと思えるんですね。

(再掲)『蟲師』における他者

 およそ遠しとされしもの
 下等で奇怪 見慣れた動植物とはまるで違うとおぼしきモノ達
 それら異形の一群を
 ヒトは古くから畏れを含み
 いつしか総じて「蟲」と呼んだ
(コミック『蟲師』第1巻、講談社、p.3)

 先日、フジ系の地上波で放送していた『蟲師』(原作 漆原友紀)が20話目で最終回を迎えました*1。BSフジでは5月、6月にあと6話、都合2クール分になるだけの放送があるそうですが*2、残念ながら今のところそれは視聴できそうにもありません。



 「蟲」とは異形の存在です。それは、五感を離れたものを感じる「妖質」が強い/研ぎ澄まされた人間にしか見えない存在でありながら、生命の原生体(そのもの)に近く、生命の源から流れ出る光酒(こうき)=命の水にも関わり、ヒトの生き死にをも左右する危ない存在と描写されます。


 その蟲が関与する人々のトラブルを解決するのが蟲師と言われる人たちなのですが、基本的にはそれは「害蟲駆除」。異形の蟲の殺生を生業としているわけです。

 微小で下等なる生命への傲り
 異形のモノ達への
 理由なき恐れが招く殺生
 そういうものが
 少なからず感じられるのだ
(コミック『蟲師』第2巻、p.67)

 ところが、この作品においては奇妙なほどその異形の蟲に対する「他者」としての恐怖が見えません(畏れはあるのですが)。むしろそれは禍々しい見た目とは異なって(もちろん危険ではあります)、必ずしもヒトに敵対的とは言えないように描かれています。それは、主人公の蟲師ギンコが蟲を「排除すべき異者」と見ず、むしろ蟲まで含んだ全生命の生態系の中で蟲とヒトとの調和を考えるような態度を取ることによって、読者(視聴者)に伝わっているのです。


 蟲師の中でもギンコは変わり者のように描かれるところもありますが、彼は「殺す者」ではなく多くの場合「調停者」として動く者だと言っていいでしょう。これはギンコが蟲師となる経緯において、彼が慕った蟲師のぬいに教えられたことが心に刻まれている(表層の記憶は失ってしまうのですが)とも考えられます。

(ギンコ)あれらは…
     幻じゃないんだよね…
(ぬい) …われわれと同じように存在しているとも
     幻だとも言えない
     ただ影響は及ぼしてくる
(ギンコ)…俺らとはまったく違うものなの?
(ぬい) 在り方は違うが
     断絶された存在ではない
     我々の"命"の
     別の形だ
(コミック『蟲師』第3巻、p.193)

 マタギが獣を殺すものでありつつその獣をもっともよく知るものであるように、蟲師もまた蟲を一番よく知るものです。蟲師という職業を設定したことは絶妙のアイディアだったと感じます。蟲に対する知識がある(つまりプロフェッショナルである)がゆえに、過度に恐れることも盲目的に擁護することもなく、場合によっては蟲との共存を考えるものがいるということがとても説得的に見えるからです。



 いわゆる幻想文学論の中での「他者」、欧米で一時期はやった「不気味なもの(uncanny)」論に描かれるような異形のものと、この『蟲師』に出てくる蟲とは一線を画していると思われます。「不気味なもの」論は多く「他者への恐怖」というテーマで語られました。


 フェミニスティックな「不気味なもの」論の代表格と言えばジュリア・クリステヴァです。彼女の『恐怖の権力』(法政大学出版局1984)では「アブジェクション(廃棄作用/おぞましきもの)」という概念が語られますが、これは抑圧され排除される存在がいかにして生れるかという彼女の論の基本となるものです。たとえば集団のアイデンティティーは、まさにその集団を脅かす存在(アブジェクション)を差別的に排除することによって作り上げられると彼女は指摘します。


 彼女の言う「アブジェクション」(おぞましいもの)とは、秩序や体系、同一性を危うくする「曖昧で両義的なもの」です。そしてそれは秩序や体系、権力の構造の規範としての 『父なるもの』と対比させられる、混沌としての『母なるもの』であり、原初の母権制への復帰を妨げるためにこの世にあるすべての禁忌や儀式、道徳や制度が「抑圧的なものとして」あるという構図が描かれます。


 そしてその廃棄の論理が、社会的差別ひいては廃棄作用としてのユダヤ人虐殺といったものへと至るということが言われるのですね。


 ところが、この「他者への恐怖」に基づく異形/不気味/薄気味悪い(uncanny)ものの捉え方が、『蟲師』ではあっさり無化されているようにも思えるのです。 それはコスモス/カオスの二項対立として世界を捉えるのではなく、すべての存在をエコロジカルに捉えることのできる一人の蟲師=ギンコの存在によって為されているのではないかと考えます。
 コミックス第1巻の最初の物語「緑の座」が、元々ヒトであったものが蟲の性質を得たというそんな両義的な存在に絡めて語られるというところに、この物語全体を象徴する意味を読み取ることができるのではないでしょうか(しかしながらこれは最初に描かれた話ではありません。最初に読みきりで投稿され四季大賞を受賞したのは四話目の「瞼の光」です。ただ、この作によってマンガを続けて描けるようになった作者が、大まかな全体構想の下に書き出したのが「緑の座」ですので、やはりこの話が方向性を示していると考えられるのです)。


 もちろん『蟲師』は一つの創作に過ぎません。しかし社会科学の論というものも、私には一つの新たな世界を見ることを可能にしてくれる創作物にも思えるのです。それがどれだけ素晴らしく人に新たな知見をもたらしてくれるとしても、それを絶対視するとかそこから演繹的に世界を見ることに終始するとか、そういうドグマになってしまってはもともとの論が持つ命を損なうだけなのではないかと…。


 他者との共存を考える上で、この『蟲師』が与えてくれる示唆というものは(おそらく作者漆原さんの意図をも越えて)深いものではないかと考えております。


 ※何か今考えているところに関わりがありそうだと思えましたので、映画『蟲師』公開記念!(前評判はあまりよろしくないとしても 笑)ということで再掲しておきます。
 他者だから排除してしまうんだ、という言明と違った可能性があるんじゃないかということです。

*1:これを書いたのは2006年の3月15日でした

*2:去年のことですので…

地震(災害と2ちゃんねる)

 マグニチュードが大きい割には、今のところ人的被害は最小限(一人お亡くなりになったそうで、お悼みします)で済んでいるのが不幸中の幸いです。


 天漢日乗さんのところの記事「能登沖地震」を読ませていただいて、災害時のいろいろな情報の集約(ノイズを含む)に2ちゃんねる式のBBSがすごく役立っているように感じました。
 これは規模のおかげといいますかスケールメリットなんでしょうか?
 いろいろ後ろ指をさされる2ちゃんねるですが、捨てたもんじゃないという感想です。