(再掲)『蟲師』における他者

 およそ遠しとされしもの
 下等で奇怪 見慣れた動植物とはまるで違うとおぼしきモノ達
 それら異形の一群を
 ヒトは古くから畏れを含み
 いつしか総じて「蟲」と呼んだ
(コミック『蟲師』第1巻、講談社、p.3)

 先日、フジ系の地上波で放送していた『蟲師』(原作 漆原友紀)が20話目で最終回を迎えました*1。BSフジでは5月、6月にあと6話、都合2クール分になるだけの放送があるそうですが*2、残念ながら今のところそれは視聴できそうにもありません。



 「蟲」とは異形の存在です。それは、五感を離れたものを感じる「妖質」が強い/研ぎ澄まされた人間にしか見えない存在でありながら、生命の原生体(そのもの)に近く、生命の源から流れ出る光酒(こうき)=命の水にも関わり、ヒトの生き死にをも左右する危ない存在と描写されます。


 その蟲が関与する人々のトラブルを解決するのが蟲師と言われる人たちなのですが、基本的にはそれは「害蟲駆除」。異形の蟲の殺生を生業としているわけです。

 微小で下等なる生命への傲り
 異形のモノ達への
 理由なき恐れが招く殺生
 そういうものが
 少なからず感じられるのだ
(コミック『蟲師』第2巻、p.67)

 ところが、この作品においては奇妙なほどその異形の蟲に対する「他者」としての恐怖が見えません(畏れはあるのですが)。むしろそれは禍々しい見た目とは異なって(もちろん危険ではあります)、必ずしもヒトに敵対的とは言えないように描かれています。それは、主人公の蟲師ギンコが蟲を「排除すべき異者」と見ず、むしろ蟲まで含んだ全生命の生態系の中で蟲とヒトとの調和を考えるような態度を取ることによって、読者(視聴者)に伝わっているのです。


 蟲師の中でもギンコは変わり者のように描かれるところもありますが、彼は「殺す者」ではなく多くの場合「調停者」として動く者だと言っていいでしょう。これはギンコが蟲師となる経緯において、彼が慕った蟲師のぬいに教えられたことが心に刻まれている(表層の記憶は失ってしまうのですが)とも考えられます。

(ギンコ)あれらは…
     幻じゃないんだよね…
(ぬい) …われわれと同じように存在しているとも
     幻だとも言えない
     ただ影響は及ぼしてくる
(ギンコ)…俺らとはまったく違うものなの?
(ぬい) 在り方は違うが
     断絶された存在ではない
     我々の"命"の
     別の形だ
(コミック『蟲師』第3巻、p.193)

 マタギが獣を殺すものでありつつその獣をもっともよく知るものであるように、蟲師もまた蟲を一番よく知るものです。蟲師という職業を設定したことは絶妙のアイディアだったと感じます。蟲に対する知識がある(つまりプロフェッショナルである)がゆえに、過度に恐れることも盲目的に擁護することもなく、場合によっては蟲との共存を考えるものがいるということがとても説得的に見えるからです。



 いわゆる幻想文学論の中での「他者」、欧米で一時期はやった「不気味なもの(uncanny)」論に描かれるような異形のものと、この『蟲師』に出てくる蟲とは一線を画していると思われます。「不気味なもの」論は多く「他者への恐怖」というテーマで語られました。


 フェミニスティックな「不気味なもの」論の代表格と言えばジュリア・クリステヴァです。彼女の『恐怖の権力』(法政大学出版局1984)では「アブジェクション(廃棄作用/おぞましきもの)」という概念が語られますが、これは抑圧され排除される存在がいかにして生れるかという彼女の論の基本となるものです。たとえば集団のアイデンティティーは、まさにその集団を脅かす存在(アブジェクション)を差別的に排除することによって作り上げられると彼女は指摘します。


 彼女の言う「アブジェクション」(おぞましいもの)とは、秩序や体系、同一性を危うくする「曖昧で両義的なもの」です。そしてそれは秩序や体系、権力の構造の規範としての 『父なるもの』と対比させられる、混沌としての『母なるもの』であり、原初の母権制への復帰を妨げるためにこの世にあるすべての禁忌や儀式、道徳や制度が「抑圧的なものとして」あるという構図が描かれます。


 そしてその廃棄の論理が、社会的差別ひいては廃棄作用としてのユダヤ人虐殺といったものへと至るということが言われるのですね。


 ところが、この「他者への恐怖」に基づく異形/不気味/薄気味悪い(uncanny)ものの捉え方が、『蟲師』ではあっさり無化されているようにも思えるのです。 それはコスモス/カオスの二項対立として世界を捉えるのではなく、すべての存在をエコロジカルに捉えることのできる一人の蟲師=ギンコの存在によって為されているのではないかと考えます。
 コミックス第1巻の最初の物語「緑の座」が、元々ヒトであったものが蟲の性質を得たというそんな両義的な存在に絡めて語られるというところに、この物語全体を象徴する意味を読み取ることができるのではないでしょうか(しかしながらこれは最初に描かれた話ではありません。最初に読みきりで投稿され四季大賞を受賞したのは四話目の「瞼の光」です。ただ、この作によってマンガを続けて描けるようになった作者が、大まかな全体構想の下に書き出したのが「緑の座」ですので、やはりこの話が方向性を示していると考えられるのです)。


 もちろん『蟲師』は一つの創作に過ぎません。しかし社会科学の論というものも、私には一つの新たな世界を見ることを可能にしてくれる創作物にも思えるのです。それがどれだけ素晴らしく人に新たな知見をもたらしてくれるとしても、それを絶対視するとかそこから演繹的に世界を見ることに終始するとか、そういうドグマになってしまってはもともとの論が持つ命を損なうだけなのではないかと…。


 他者との共存を考える上で、この『蟲師』が与えてくれる示唆というものは(おそらく作者漆原さんの意図をも越えて)深いものではないかと考えております。


 ※何か今考えているところに関わりがありそうだと思えましたので、映画『蟲師』公開記念!(前評判はあまりよろしくないとしても 笑)ということで再掲しておきます。
 他者だから排除してしまうんだ、という言明と違った可能性があるんじゃないかということです。

*1:これを書いたのは2006年の3月15日でした

*2:去年のことですので…