年齢に応じて

 先月、NHKの『SONGS』っていう新番組で第一回目に竹内まりやさんが登場。まあ新曲プロモ風のところもありましたが、テレビで竹内まりやの姿が!っていうことで見ました。私より8、9歳年上で50代にかかった竹内まりやさんは相変わらず美しく、年齢不詳に磨きがかかったようでした。
 その新曲というのが、三拍子のスローバラード『人生の扉』です。

 春がまた来るたび ひとつ年を重ね
 目に映る景色も 少しずつ変わるよ
 陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
 気がつけば五十路を 越えた私がいる

 サビの部分(1番)は

I say it's fun to be 20
You say it's great to be 30
And they say it's lovely to be 40
But I feel it's nice to be 50

 そして2番のサビの最後は


But I'll maybe live over 90

 というように、お達者くらぶまで全カバーというような意欲的な詞です。


 竹内さんの曲では、私は最初に自分が聞いて好きになった『不思議なピーチパイ』が一番と(勝手に)刷り込まれていますが、その実『駅』とか『シングルアゲイン』とか、そういうネガティブ系が最も好きです。彼女はシンガーソングライターとして最もまっとうに、自分の年齢(年代)に相応な歌を作られますね。好きな人はずっと好きなままでいるんじゃないかなと感じます。


 増田で、■負け犬

 未婚子無しで40歳でもこんなにカッコイイ!みたいなキャンペーンはなんか成功したみたいだけど(誰も怖くて反論できないだけ?)、30年後にこの人たちが70歳になっても相変わらず持ち上げようとするのかなあ。

 という記事がありましたが、竹内まりやさんのように特に狙ったというのではなく、クリエイターが年を重ね、支持者も同じように年を取るという部分でこういう現象も実際に起きてくるだろうと思います。もちろんプロデュースに入った人のところで「作為」はあるのかもしれませんが、そうした操作だけで全部が説明づけられるとは思わないですね。

『現代日本のアニメ』紹介の若干の続き

 id:h-nishinomaruさんからトラックバックをいただきました。

 外国文化(他者)を論じて、自国文化(自己)を語るに落ちてしまう、よくあるパターン

 鋭いと思いました。特に同時代のあれこれを論じるものには、この面がどうしても出てくるものでしょう。
 あと、少しだけ紹介させていただいた本から、h-nishinomaruさんが触れられていた部分に関する議論を引いてみます。


 『らんま1/2』は、主にジェンダーやセクシャル・アイデンティティ、そして青年期の自我の形成といったところに絡めて論じられています。

 このオープニングエピソード(※『らんま1/2』第一話)を見てみると、大人になることに付随するいくつかの問題―とくに若者の孤独感―を描いた典型的な縮図であると言えよう
 (『現代日本のアニメ』より ※は引用者注)

 ネイピア氏はジェンダーの逆転という物語に『十二夜』も引かれますが、基本的に『らんま1/2』でのそれを一定の枠内での混乱とお考えのようです。

 作品中の逸脱は、常に「ノーマルな世界」という現実的空間の中に封印されている。…それぞれのエピソードにおける境界線は、結局へテロセクシュアルなヒエラルキー社会の慣習の中に収斂されていき、保守的な結末に落ち着くのだ

 そして、

 思春期における自我の形成に伴う苦悩をシンプルに表している

 というように、文化研究家エリザベズ・グロズの言葉「人は、思春期において、セクシュアルな、すなわち性器による位置づけが明確に決められる。望もうと望むまいと」を引用しながら書かれるのです。


 『ああっ女神さまっ』を語る前段でネイピア氏は『うる星やつら』を分析します。『奥さまは魔女』などへの言及もここであります。

 さらに、この作品(※『うる星やつら』)が『奥さまは魔女』や『かわいい魔女ジニー』と…決定的に違うのは…(※エピソードの終わりで丸く収まることなく)ほぼ毎回、永久に世界のタガが外れてしまったかのようなカーニバル的なイメージを残したまま幕を閉じることである」

 この逸脱を許容したものを、氏は1980年代の日本の状況に絡めて考察されます。「能力・秩序・調和・順応性」が求められていた社会での息抜きとか、女性の地位向上とか、またこの逸脱を大枠で無に帰さないように仕掛けられている「従来型の生活」の部分とか(母親の位置、ラムの一途な愛…)。
 この文脈で、その後の十年間に日本社会に起きた文化的・社会的変化が『ああっ女神さまっ』の方に影響している(のではないか)という議論が続けられるのでした。

…『ああっ女神さまっ』に見られる、より穏健な特徴、特に女性たちの描かれ方は、日本人女性の強くなる一方の主張を反映するものではなく、それに対するリアクションであると思われる。

 まあこのような反動であると見てみれば、確かにそれは『奥さまは魔女』の方向への回帰と看做せるわけです。

…『ああっ女神さまっ』は…自己犠牲やすべてに打ち勝つ愛というテーマが引き立てられることによって前向きなハッピーエンドで終わる。この作品は…ある意味で明らかに最も「現実逃避的」である。

 そしてこの論考の最後は、次のような身も蓋も無い(?)言葉で締められています。

 これらのシリーズで描かれる「マジカル・ガールフレンド」が、単に魔法が使えるということだけではなく、異世界の存在であるのはまったく偶然ではない。男性の夢が、これほどまでにすばらしい形で実現することは、今や、現実から遠くかけはなれた異質な世界でしかありえないという暗黙の了解がそこにはあるのだ。

 でもそうなれば、その後増えてきた等身大の社会でのハーレムマンガ・アニメ(たとえば「ラブひな」とか)がどう位置づけられてくるかはまた課題となるわけですが…。