読む側の一論理
結論のはっきりしたブログ記事を読むのは確かに面白いと感じます。でも案外それはその結論が自分の今まで持っていた考えに沿ったものであることを前提にするんじゃないかとも思います。そこでは自然に「いやなら読まなきゃいいじゃない」が実行されているのかもしれません。あるいは自分の信念と逆方向のことを断ずるところにあたってしまった場合、どこがおかしいかを(好感を持てる記事の何倍もの熱意をもって)探してしまったりするのではないでしょうか。
そういう意味では白黒をはっきりさせる書き方をなさる人のところは、自分の考え方を強化・補強する役割を担っていると言えるかもしれません。
これに対してうだうだ悩み結論がはっきりしないようなブログ記事や自分が考えたこともないような観点で書かれた記事は、よほど意味が通らない場合を除いて、何か立止まって考えるきっかけを多く与えてくれるようにも思います。頭に素直に入ってこない見慣れぬ逡巡や、もとから知らない分野のことを読んでいる分には誤読なども増えるかもしれません。でもその誤読も時に豊かな誤読となり得るのではないかなと感じます。
そこにある文意が全部明瞭にわかったわけではなくとも、あるいは片言隻句が記憶に残ったり、あるいはほんの部分の記述から自分の中で考えが広がったり…
この意味で、玉石混交ではあるでしょうが、結論を断言しない書き方をされるところ、自分の知らない(考えなかった)ものを書かれるところには、自分の考え方に新しい発見や方向を与えてくれる役割が見いだせるのかなと思えます。
断定的にものごとをおっしゃるところは、読み手に爽快感さえ与えてくれるものです。そういうところで私のお気に入りのところもありました。でもたぶん、そういう強い書き方をされている方が他の人を動かすところはかなり少ないのではないかという気がします。それは同じような考えを持つ人をすっきりさせているだけであって、違うものの見方をしている人を動かせていないような気がするのです。
確かによほどしっかりした根拠に基づいた意見・記事は読者を説得する力も持つと思われますが、なにせネット上で読む人はワン・クリックでその文章が見えないところへ移動できてしまうのです。いやなものを忌避せずに毎日毎日立ち向かうような人がそれほど多いとも思えません。
また、断言調の方々は往々にして強い信念を持って「聴く耳」を持ちません。こちらの問いかけを考えてみる素振りさえみせず、自己主張ばかりされるそんなところに「対話」の可能性を考えてみるのも徒労に思えてしまうわけですし…。
ということで、意外にも主張のはっきりしないブログのほうが実になるのではないかとちょっと考えた雨の朝。
アメリカにおける「歴史修正主義」への一つの言及
□ 「原爆投下はソ連参戦阻止を目的としていた」という説がある。「日本に苛烈な無条件降伏を強いることで、日本の降伏決定を遅らせ、そのことによって、対日原爆投下を可能にして、以てソ連参戦をを制止しようとした」という説である。これは米国における「修正主義学派」の学説である。当時のバーンズ国務長官の言動に依拠している。
/ 多分、久間大臣は、この「修正主義」学説に影響されたかもしれない。だから、久間発言は、「暴論」ではないのである。ただし、政治家は、「こういう説がある」という言い方を通してもらう必要があるのであろう。
もっとも、永井教授は、「修正主義」」学説には批判的である。。
(雪斎の随想録:「核」に関する備忘録より)
アメリカで「歴史修正主義」と言われる人たちが、対ソ戦略の一環として原爆が使われたと主張しておられるということ
※これ(歴史修正主義と Hiroshima)とどう整合するか
自虐?
こういう小糠雨が降り続くときは気持も落ち着くものですが、穏やかさを通り越して落ち込むことだってあります。さらに妙なことに、落ち込んだ気持をどこか望んでしまうといいますか、絶望が仄見える方へ自分の気持を引っ張るように辛かったときのことなどをわざわざ思い出してみようという気になる時すらあります。
たとえば小道具に使うのは『マリア様がみてる』の「レイニーブルー」とか、わりにわかりやすく心の傷口のかさぶたをじりじり剥がしてくれるようなそういうものだったりもします。体調が良ければ少しずつお酒を入れながら、どんより昔の痛い記憶を探ったり、悲しい別れを思い出してみたり、戻らぬ選択を「自分の所為だ」と後悔してみたり…
「レイニーブルー」はもう何かまさに付き合っていた人と終わる時のじりじりした感じ、何か挙動がおかしい、遠くに破滅が見えている、でも知らない振りをしよう、だけどやはり終局へ滑り落ちていくような皮膚感覚がする…そういう感じを呼び起こしてくれます(結局マリみての話の筋はその後逆転しますが)。何というか痛い気持ち。角を曲がると絶望が待っていそうな、自分だけ何もしらないでいるということに薄々気付き始めたような、そういう疎外感は秀逸です。
なんでこんな不幸に浸ってみるのが好ましく思われるときがあるのか知りませんが、そういうのが時々。
そして今、そちらへ行こうかどうしようか迷っているのですが、さてどうしましょうか…