べし

 『ロミオ×ジュリエット』にばかり文句をつけているようで何ですが(前回)、いくらなんでもこれはないんじゃないかと…

第15幕 自我〜進むべく道

 進むべく道って日本語じゃないですよね?*1
 「進むべき道」というように自然にならないのではこの脚本を書いている人は本当に古語を知らないといいますか、日本語のある面が不自由なのではないかと思ってしまいます。前回のは苦笑で済ませられるとしても、この間違いはあり得ないと思ってしまいました。

*1:「(誰それが)進むべく、道を探す」のように「べし」が「道」にかからないのならいいのですが、ここはそう判断できないでしょう

トンデモ歴史は淘汰される(はず?)

 m_um_uさんから歴史修正主義について断片的に書いたものへのトラックバックをいただいています。ありがとうございます。久間発言などに絡んでこれについてもっと書かれる方がおられるのではと思っておりましたがほとんど目にしてはいませんでした。また探してみます。
 さて、結局この件について私が言いたいことは表題のことに尽きます。

 歴史認識の深化・進展のためにも新仮説の提示に制限を加えるべきではない。
 あまりに恣意的な仮説、根拠のないトンデモ歴史は早晩淘汰されるはず。

 それが成立しないというのなら…
 歴史学が学問としてまだ未熟で不完全なものであるか、
 史学的正しさの観点を理解できない人が多いか、
 歴史認識が史学を離れて政治的に左右され過ぎている

 ということがあるのではないかと。
 もっとも気にかかるのは、「歴史修正主義」という言い方が歴史の正当性・妥当性ではなく、「正統性」を指示しているのではないかと見えることです。もしそうならばそれは史学ではなくある種の政治でしょう。
 よしんばある時点で「正統」な解釈、「正しい」解釈というものが成立していたとしても、それに対する疑義の提示を拒むのならば歴史学は学として終わりです。いかなる立場でそれが為されたにせよ、その時点から歴史認識は検証を離れたプロパガンダに堕してしまうと考えます。

歴史認識

 付け足しで歴史認識と政治的態度についての前々からの疑問を書いておきます。
 正しい歴史認識において私たちの行動も正しく為されなくてはならない…というタイプの議論を散見します。でもそれは非常に難しいことを言っているのだということが理解されていないようにも思えるのです。


 歴史認識の正否は、単純に私たちに当為(何をしなければいけないか)を与えてくれるものではありません。たとえば日本の侵略という歴史があるから「日本人は反省し中国に謝罪すべきだ」という言い方があるとして、中国から日本に帰化した(元中国人の)宋さんは帰化の当日から謝罪すべき立場に立つというのでしょうか?そんなはずもありません。
 いやそうではなく謝罪は日本という国から中国になされなければいけないんだという話でしたら、それはすでに外交的に決着が付けられ「日中平和友好条約」が締結されているのではありませんか?
 つまり歴史認識が個々人の当為を決めるのでなければそれは政治や外交の問題であり、すでに歴史学を離れた次元での営みなのです。もちろん国民一人一人の認識が国の政治を左右するという面はありますが、その点に関しては個々人の信条に任されているというのが大前提なはず。正しい歴史認識というものが思想統制になってしまったのでは本末転倒でしかないです。


 結局歴史認識が当為を決定するというのは、よく考えてみれば非常に曖昧でクリアに実行することが困難な類のことだったということなのではないでしょうか? ここらについての議論ももっとあって然るべきかと思いますがどうでしょうか。