アフガニスタン韓国人拉致事件
夕方のニュースでアフガニスタンにおける韓国人23名拉致事件のリミットが間もなくであるという報を伝えていました。本日11:30までに韓国軍撤退とタリバンで逮捕・収監されている人物の解放がなければ、韓国人人質を殺害するとタリバン側は言っている由。
ところでこのニュースで(私はTBSとANNを見ただけですが)、拉致された韓国人を「医療ボランティアの23人」「医療、教育に関するボランティア」などとしか伝えないのには理由があるのでしょうか? 確かに彼らは医薬品・鉛筆・ノート・せっけんなどの援助物資を幼稚園や病院*1に渡そうとしていたのですが、彼ら自身は医療関係者ではなく、「韓国人医療・奉仕団」という名前で動いてはいますが「アフガニスタンで短期宣教に参加していた韓国人キリスト教信者たちのグループ」であることは朝鮮日報他で最初から報道されているのです。
アフガン拉致:危険を顧みず活動を行うキリスト教信者たち
アフガニスタンで短期宣教に参加していた韓国人キリスト教信者たちのグループが20日、武装勢力に拉致されたことが明らかになり、再びアフガニスタンと韓国のプロテスタント系キリスト教団体との関係に注目が集まっている。韓国のプロテスタント系団体は昨年8月、2000人以上が参加する「アフガニスタン2006平和行事」を開催しようとしたが、韓国政府とアフガニスタン政府の要請で規模を大幅に縮小して行った経緯がある。
プロテスタント団体によると、現在アフガニスタンに長期滞在中の韓国人宣教師は、10の団体・教会・教団所属の100人以上に達するという。ほとんどの宣教師たちは、宣教活動を行っていることを明らかにして活動しているのではなく、奉仕活動中心に活動している。タリバン政権樹立前からアフガニスタンで活動していたクォン・ソンチャン牧師は「以前はパキスタンを通じてのみアフガニスタンに入国できたが、最近は入国ルートが多様化し、ビザの発給も簡単になって多くの韓国人キリスト教信者たちが現地で活動していると聞いている」と述べた。(中略)
…2002年にアフガニスタン戦争が終結した後、03年からは毎年400人から500人の韓国人キリスト教信者らがアフガニスタンを訪問し、医療、青少年教育、情報技術(IT)教育、農業教育などを行ってきた。このような奉仕活動は、長期休暇などを利用して行われる「短期宣教(奉仕)」の形で行われている。現地の宣教師たちが、様々な教会や団体に所属する短期宣教チームの活動内容や場所について相手側と話合い、プログラムを準備し、奉仕活動を行うことができるように支援するという方式だ。(後略)
彼らを拉致したタリバン側の行為はどう考えても正当化できないものとは思いますが、この不穏な状況下で「20代から30代の若者たちを短期宣教に送る」彼らの属する教会の方針には大きな疑問符がつくと言わざるを得ません。
アフガン拉致:被害者のほとんどが20-30代
アフガニスタンで拉致された京畿道城南市盆唐区のセンムル教会に通う信徒たちは、ほとんどが青年会に所属する20‐30代で、休暇や休職の合間を縫って短期宣教に向かっていたことが分かった。中には毎年短期宣教を行ってきた人もいる。
この情報を伏せることで何がしかの事件に対する印象が変わると私は思いますし、どういう意図があるのか考えさせるものがあります。
アフガン拉致:被害者らが属するセンムル教会とは
大韓イエス教長老会の高麗神学(高神)に所属するセンムル教会は、現在の堂会長であるパク・ウンジョ牧師が1998年10月、京畿道城南市盆唐区亭子洞にある商店の建物の5階を賃貸し設立した。
その後拡張を繰り返し、1年前に亭子洞にある現在の5階建てビルに移転した。1‐4階は事務室や礼拝堂、教会学校などとして使用されており、5階は改装中の状態。
今年3月現在の平均出席信者数は、成人が約2700人、高校生以下の子どもたちは約1100人であると教会側は発表した。
現在パク牧師はアメリカに出張中で、拉致の知らせを聞き急遽帰国の途に着いていることが分かった。20日午後に拉致の知らせを受けた後、約50人の取材陣が押し寄せたが、教会側はクォン・ヒョクス長老の短い状況説明を除き、外部との接触を一切避けている。
パク牧師はキリスト教の電子新聞『ニュース&ジョイ』と月刊誌『福音と状況』の発行人を務めるなど、教界で旺盛な活動を行い、センムル教会を通じた海外への宣教活動にも意欲的に取り組んでいる。
教会関係者は、1階の事務室で政府や現地からの知らせを聞いて対策を講じている。センムル教会が属する高神総会総会長のクォン・オジョン牧師は「現在、教団レベルで特別祈祷(きとう)令を発し、拉致被害者が一刻も早く釈放されることを祈っている」と話した。
(朝鮮日報日本語版 2007/07/21)
ニュースの映像で「韓国軍撤退を呼びかける韓国人のデモ」として紹介されていたものは、この教会の信徒たちによるデモだったのではないでしょうか?
もちろん、今火中に栗を拾うようにアフガニスタンに布教を試みるクリスチャンは馬鹿だ、という世俗の見方ではなく、こういうときだからこそ宣教に向うのは勇気ある正しい行為と捉える宗教的視点もあるでしょう。しかしその見方ではここでの「殉教」もまた正当化されることになるでしょうし、それでは世俗(といいますか韓国世論)を動かすことにならないかもしれません。
拉致された方々のご無事の帰還は願うものですが、日本のメディアが妙に偏った情報しか流さないことにはいよいよ不信感が増す一件だと思えました。交渉期限はあと5時間ほど。 交渉の延長はあるのでしょうか? 彼らは無事帰ってくることができるのでしょうか…?
才能とか
1、2ヶ月前、誰かのブログもしくは増田で「東大を主席で卒業した奴」にはかなわないだったか大したことないだったか、とにかくそんなことを書いていた記述を見た覚えがあります。いまだにこんなこと言ってる人がいるんだと、それだけ記憶に残りました。
東大に主席で入学っていうのは一応あるんでしょうけど、主席で卒業とかいう判別は当然あり得ません。だって卒業時には学生の専攻はばらけてますから、たとえば医学部の中で一番成績がいい人(がいたとして、それ)と法学部で一番成績が良かった(というのも曖昧な表現ですが、まあそんな)人とを同じ尺度で測ることなどできるはずがないからです。
大学入試までの学校生活の中で、なんとなく「学力」とかいうものを実体的に考えてしまうくせがついちゃうのですが、以前にも書いたように「国語」の点数と「数学」の点数と「英語」の点数と…とにかくそういった尺度の違う点数を集計したところで、総合的な成績なんていうものは擬似的にそれらしい何かを指すだけで「客観的な学力」を示すわけではありません。それぞれの科目の100点(とか200点)満点の基準や尺度が他の科目と同じという保証なんてどこにもないからです。違った尺度を集計して、たとえば身長の170cmとグラフを読み解く能力と100m走のタイムを足したところで、それが何を指すというのでしょう?
試験の結果の合計は、せいぜい身長と体重と胸囲を足した数値が「身体の大きさ」を大まかに指し示す程度の意味しかないのは当然と私には思えていました。まして専攻分野が分かれて以降の成績なんていうものは、誰がどうひねくり回しても一つの尺度で上下を比べることなどできるはずがないでしょう。
才能とかいうものも同じです。それが「何の」才能かというのがわからなければ、人の才能と自分の才能とかいうものを比べることすら困難です。似た種類の才能ならばある程度比べることもできるでしょうが、それもまた「いつ」「どこで」「どういう基準で」比べるかによって上下関係などいくらでも変わってきます。物凄く才能に溢れているからといって、社会・世間に受け容れられるとも限りません。無名のままに終わってしまった才能など(見えないだけで)案外いくらでもあるような気もします。目立ってこその才能、というのでしたら、それは「社会的に認知される」という一つの異なるインデックスを導入して、分野ごとの才能とはまた違うところで競わせなければいけないでしょうね。それにしたところで「時代に適うかあわないか」で運不運は相当にありそうですが…
時宜に適った「ある種の才能の発揮」が存在するのは確かでしょうが、それは運命と同じような意味で後付けの意味しかもたないのではないかと考えます。
まあだから他人の才能を羨むより、自分で何ができるか、どういう準備をすればどこまでできるかということを淡々と考えていけばいいということで、もちろん他人様の認められた才能をくさす必要などどこにもなく、それには拍手を送りつつ「自分は自分」と考えていけばいいだけなのではないでしょうか?
特にいろんなことに色気のある若いうちはそれが難しいということは身にしみてわかってはいますが…
こういうものの見方は人間が枯れてくると逆に言い訳となって、自助努力を怠るようになってしまうのが玉に瑕かもしれません(笑)