才能とか

 1、2ヶ月前、誰かのブログもしくは増田で「東大を主席で卒業した奴」にはかなわないだったか大したことないだったか、とにかくそんなことを書いていた記述を見た覚えがあります。いまだにこんなこと言ってる人がいるんだと、それだけ記憶に残りました。
 東大に主席で入学っていうのは一応あるんでしょうけど、主席で卒業とかいう判別は当然あり得ません。だって卒業時には学生の専攻はばらけてますから、たとえば医学部の中で一番成績がいい人(がいたとして、それ)と法学部で一番成績が良かった(というのも曖昧な表現ですが、まあそんな)人とを同じ尺度で測ることなどできるはずがないからです。
 大学入試までの学校生活の中で、なんとなく「学力」とかいうものを実体的に考えてしまうくせがついちゃうのですが、以前にも書いたように「国語」の点数と「数学」の点数と「英語」の点数と…とにかくそういった尺度の違う点数を集計したところで、総合的な成績なんていうものは擬似的にそれらしい何かを指すだけで「客観的な学力」を示すわけではありません。それぞれの科目の100点(とか200点)満点の基準や尺度が他の科目と同じという保証なんてどこにもないからです。違った尺度を集計して、たとえば身長の170cmとグラフを読み解く能力と100m走のタイムを足したところで、それが何を指すというのでしょう?
 試験の結果の合計は、せいぜい身長と体重と胸囲を足した数値が「身体の大きさ」を大まかに指し示す程度の意味しかないのは当然と私には思えていました。まして専攻分野が分かれて以降の成績なんていうものは、誰がどうひねくり回しても一つの尺度で上下を比べることなどできるはずがないでしょう。


 才能とかいうものも同じです。それが「何の」才能かというのがわからなければ、人の才能と自分の才能とかいうものを比べることすら困難です。似た種類の才能ならばある程度比べることもできるでしょうが、それもまた「いつ」「どこで」「どういう基準で」比べるかによって上下関係などいくらでも変わってきます。物凄く才能に溢れているからといって、社会・世間に受け容れられるとも限りません。無名のままに終わってしまった才能など(見えないだけで)案外いくらでもあるような気もします。目立ってこその才能、というのでしたら、それは「社会的に認知される」という一つの異なるインデックスを導入して、分野ごとの才能とはまた違うところで競わせなければいけないでしょうね。それにしたところで「時代に適うかあわないか」で運不運は相当にありそうですが…


 時宜に適った「ある種の才能の発揮」が存在するのは確かでしょうが、それは運命と同じような意味で後付けの意味しかもたないのではないかと考えます。
 まあだから他人の才能を羨むより、自分で何ができるか、どういう準備をすればどこまでできるかということを淡々と考えていけばいいということで、もちろん他人様の認められた才能をくさす必要などどこにもなく、それには拍手を送りつつ「自分は自分」と考えていけばいいだけなのではないでしょうか?
 特にいろんなことに色気のある若いうちはそれが難しいということは身にしみてわかってはいますが…


 こういうものの見方は人間が枯れてくると逆に言い訳となって、自助努力を怠るようになってしまうのが玉に瑕かもしれません(笑)