亀田史郎氏の奇妙な間違い
亀田氏が『侍ジャイアンツ』から換骨奪胎の(無断)引用をしていた(させられていた)という話題には驚きましたし、ある意味放送したテレビ局まで含めて失笑ものなのですが、その引用にある誤字には実に奇妙なところがあります。
こちらの番組キャプチャ画像より引きますが、
(亀田氏の筆による)
…ひたすら歩み続けたからこそ今日の栄光が会った
しかしボクシングの道は終った分けではない
…戦陣の谷に何度も落ちようとも…
(元ネタ)
…ひたすら歩み続けたからこそ今日の栄光があった
しかし野球の道はこれで終わったわけ(訳)ではない
…千尋の谷に何度落ちようと…
ここらへんの間違いは、あるいは「耳で聞いた」間違い*1と受け取れるものです。「センジンノタニ」と聞いて「千尋」が出てこなくて「戦陣」と書いてしまうような誤りは、あんまり他人のことは笑っていられない類の間違いではないかと思います。
ところが次の部分
(亀田氏の筆による)
…興毅よ万文の山はいくつはばまおうとも
(元ネタ)
…サムライよ万丈の山がいくつ阻もうと
ここの部分は、明らかに「目で見て写し間違えた」誤りとしか受け取れないのです。
二行続きの「万丈の山」云々と「千尋の谷」云々とを、見て間違い、続けて聞いて間違ったというのはシチュエーションとしてどうにも納得できません。
それではここをどう捉えるべきか。
私は、最初の方の「耳で聞いて間違った」ように思われるところも実は「目で見て間違っている」のではないかと考えます。そしてそこには亀田氏に(誰かが)写させた元原稿上の誤りまでが反映しているのではないかと思われるのです。
「今日の栄光があった」という言葉を耳で聞いた時に、「あった」を「会った」と間違えるようなミスが通常あるものでしょうか? これは亀田氏の教養をどうこう言う以前に、ワープロの変換ミスにこそよく見られるものと考えるべきなのではないでしょうか。
つまり元原稿(というべきものがあって、そこに)すでに
…栄光が会った
…ボクシングの道は終った分けではない
…戦陣の谷に何度も落ちようとも
という感じで入力ミスがあり、亀田氏はむしろ忠実にそれを写している!という驚くべき推理が成り立つのではないかと思うのです…
つまりは亀田史郎氏は字はいささか下手なところはあっても、そして棒線で消したような書き損じをし、間違いをそのまま書いてしまうおバカなところはあっても、ここでのミスのかなりの部分に責任は無かったのかも知れないのです!
まあ結局史郎氏の名前で出している以上、本人が責められても仕方ないですし、あまりに稚拙な間違いに気づかないという時点で同様の揶揄は受けてしまうだろうなとは思います。
ただ、元原稿を作った人(がいるならその人は)やっつけ仕事しかできないお粗末な人ですし、「阻もうとも」の部分を「はばまおうとも」に間違っているところに注目すれば、あるいは目の前にいて
「この漢字は何て読むねん?」
「ハバモウ、ですよ」
ぐらいのやり取りもあったのでは?と思わせますから、何か勘違いをしていて、少しぐらいの誤字があった方が「学の無い(しかし)真摯な父親」像をアピールできるとか思ったんじゃないでしょうかね。(もしそうだったならば)それはまるっきりの勘違いだと思うのですが…
それにしても史郎氏は私とほぼ同時代の人とは思いますが、中学や高校で合唱コンクールでもやらなかったのかと思います。当時の定番の曲の一つ、『箱根八里』(詞 鳥居忱・曲 滝廉太郎)を歌っていた記憶があったならばもしかしたら妙な間違いをせずに済んだかもしれません。
箱根の山は 天下の険
函谷関も物ならず
万丈の山 千仞の谷
前に聳え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
…
ここでの「ジン」は「尋」よりも難しい(見慣れない)漢字ではあるのですが。
(※ちなみに私も実は歌っていません。他のクラスのものを聞いていいな〜と思っていました。また、『流浪の民』もかっこよくて歌いたかったのですが、それもまた他のクラスのを聞いただけで、重ね重ね残念といったところです)
*1:ここの意味を拡げますと、記憶の中から持ってきた間違いとも言えると思います 10/16追記