グルタミン酸ナトリウム

 「化学調味料」は有害なのか(上)
 朝鮮日報日本語版から小ネタを。
 『美味しんぼ』の初期の頃をわりに読んでいた私は、ナイーブだったのでしょうか書かれている蘊蓄などをはじめ素直に感心して読んでいました*1。で、その「美味しんぼ」では化学調味料性悪説が繰り返し書かれていましたし、あまり疑いもせずに「中華料理店症候群」(大量の化学調味料を使う中国料理店の料理を食べると舌がぴりぴりする)などはずっと頭に入っていました。
 ところがこの記事、その化学調味料を禁止(あるいは抑制)せよと唱える韓国の市民運動に対し朝鮮日報記者が疑問を呈するといった感じのものなのです。

 グルタミン酸ナトリウムFDAやWHOの認めた安全物質なら、これまで繰り返し指摘されてきた「危険性」とは何なのだろうか。グルタミン酸ナトリウムの入った食品を食べると胃がムカムカしてのどがこわばる「中華料理店症候群」と呼ばれる症状を訴える人について、どのように見るべきか。多くの研究者は、この症状はグルタミン酸ナトリウムと関係がないという。


 米ジョージワシントン大学のケニー博士は1985年、「中華料理店症候群」だという人を対象にグルタミン酸ナトリウム6グラムが入った水と、グルタミン酸ナトリウムが入っていない水を飲ませ、症状を比べたところ、グルタミン酸ナトリウムと「中華料理店症候群」は関連性がなかった、という研究結果を発表した。

 実際、私が『美味しんぼ』ネタから離れていったのは、無闇にアップルのマッキントッシュを持ち上げる回の話を読んだあたりです。マックが駄目とは思いませんが、その持ち上げ方やPCのくさし方がいかにも半可通っぽくて、これと同じ調子で食べ物のことを書いているんだったら信用するのも…と思ったあたりがきっかけでした。
 ただ単純に裏返しで信じなくなったわけでもなく、その後もたびたび読む機会はありましたし、是々非々でおいしそうなものが紹介されていれば「おいしそうだな〜」と思うこともあったのです。語られていた知識にしても同様で、ホントらしいと思えたものはそのまま。それで今日この記事を読んでみると、あれは疑わしかったのか…とちょっとびっくりでした。
 「化学調味料」は有害なのか(下)

 2000年、ボストン小児病院のゲハ教授らは米国栄養学会誌に「中華料理を食べた人々が訴えるむかつきや吐き気といった症状は、グルタミン酸ナトリウムという一つの原因によるものではなく、中華料理に入っているさまざまな食材(海産物・魚介類・肉など)に対するアレルギー反応だと言える」と発表した。


 グルタミン酸ナトリウムが人体に致命的な影響を及ぼすという説は、1960年代末に米国のオルニー博士の研究から始まった。オルニー博士は「ネズミに体重1キロ当たり4〜8グラムのグルタミン酸ナトリウムを皮下注射したところ、視神経に障害が起きた」と発表した。しかし、この実験は食品の中に少量含まれている物質を大量に皮下注射し、危険性を誇張した実験と言われている。中央大学食品工学科のハ・サンド教授は「スプーンで数十杯も食べない限り、グルタミン酸ナトリウムが人体に有害だという可能性は非常に小さい」と話す。

 この記事を読んだからすぐに全部信じる、というわけでもありませんが、これはちょっと疑ってみる必要もありそうな知識だったとは感じました。


 実は手許に「ビッグコミック スピリッツ」の1994年1月31日号があります。これは引越しの時に発見したもので、何でスピリッツを一冊だけ?と自分でも疑問でしたが、ちょうど山岡とゆう子が結婚する回で、おまけに『美味しんぼ』の300話までの索引がつけられていたのです。これがちょっと面白くてこの号を買って残していたんだと思い出しました。
 今それを引いてみますと、「化学調味料」について書かれている回は

 【茶の味わい(4巻−第8話)】スケ番の修学旅行みやげの玉露
 【スープと麺(8−5)】冷やし中華がまずい理由
 【日米味合戦(9−6)】スッポンの吸い物で味覚比べ
 【キムチの精神(10−3)】インチキキムチの正体
 【辛し明太子(21−9)】舌がピリピリするのは化学調味料のせい
 【ラーメン戦争(38)】アジア人とグルタミン酸。ラーメンには化学調味料が必要?

 とこれだけあるようです。読んだ覚えがあるものもちらほら…
 こういう蘊蓄マンガの知識も捨てたものではないと思うほうなのですが、ちょっと「美味しんぼ」からのそれは軽々に人に話せないなあと思ってしまいましたね。
 ちなみに、上記記事で

◆市民団体は「それでもよくない」 
 グルタミン酸ナトリウムに対し批判的な見解を表明してきた市民団体らは「グルタミン酸ナトリウムの有害性は証明できないが、安全性も保障できない物質」としている。(後略)

 とありましたが、完全な安全性というのもなあと専門家も頭を抱えてしまうのではないでしょうか。
 50%致死量(LD50*2)で、お塩だって3.75g/kgで半数の人は死ぬんだと元の同僚に教えてもらって驚いたことを思い出します*3

*1:スピリッツで『めぞん一刻』が連載中だった頃など、近所の食べもの屋さんに置いてあったこの雑誌をリアルタイムでも読んでいました

*2:体重1Kg当りにどれくらの量が体内に取り込まれると半分の人が死んでしまうかという量, 50% lethal dose

*3:細かい数値は今検索で見つけ直したのですが、案外当時は目からうろこでしたね

想像力をどこに働かせるか

 自分の行為(の結果)や周囲の状況(の変化)を予測すること。これは誰でも生きていく上で必要とする能力でしょう。またその予測から自分の情動の変化がフィードバックされれば、これはすでに想像力と言われるあたりの領域に入ってくると考えます。
 ある意味「空気を読む」という行為もこうした想像力の働きの類ではないかと思いますが、それが必要以上に自分(たち)を縛るという点において手放しに想像力は素晴らしいとも言っていられないのではないかと。また自分を縛ると言いますと、暗がりの恐怖といった類、子供に多くあるとされる「こわさ」への過剰な反応、自分で想像した何者かに自分で怯えてしまう・縛られるといった事態もこの想像力(の負の面)かもしれないと思いますね。


 最近けっこう歩いて通勤するようになって、信号なしの横断歩道で歩行者を全く気にかけない車や歩道に駐停車する車のことがかなり気になります。自分では運転している間にそこらへんの配慮はしようと考えてきましたが、時に配慮しきれないことも正直ありました。そんな時、まあ今は仕方がなかったぐらいに思うようなこともあったはず。
 ところが歩行者の側からすれば、何でこれだけ無神経なことをやることができるのだろうとそのたびに強く思ってしまうわけで、あまりにもその意識にずれがあるなあと感じることしきりです。
 特に後者の歩道に(かけて)駐停車する車の側の気持ちは、自分の気持ちから量ってみると「車道の通行を邪魔したくない」というあたりに一番の理由があるんじゃないかと思います。そこでは同じドライバーの気持ちというものに多くの想像力が費やされ、他の車の邪魔にはならないように配慮しているというむしろ善意すらそこにあるのではないでしょうか。ところがこの場面では歩行者(や歩道を通行する自転車)などに対する「迷惑だろうな」という想像力はほとんど働かないか、せいぜい「一人通れるぐらい空けてるからいいだろう」ぐらいの軽い配慮しか現れないのです。


 車の右左折の時、どれくらい横断歩道の歩行者に配慮するかというあたりでも、改めていい加減なドライバーの多さに気づかされました。実は私が免許を取って最初に違反行為で切符を切られたのが、左折時の歩道上の歩行者に配慮しないという「歩行者妨害」という違反で、後で考えてみると歩行者自身の申し立てが無かったのに張り込んでいた警察に言いくるめられて違反になったのでは…という感も少しだけありましたが、まあ教育効果としてはかなりなもので、その後相当気にし続けているのは確かです。(免許を取ってまだ一週間ぐらいのことでした。忘れもしない北大路から下鴨本通りに向けての左折です。レコード屋の前か何かで警察が取り締まりをしていたのでした)


 立場というもので、人はその想像力の働かせ方を大きく左右もされるのでしょう。自分の想像力と同じように想像を働かせないからといって、それは一概に「想像力が無い」と言って責めることのできるものではないかもしれません。ただ、これはできるタイミングの時しかやっていませんが、たとえば歩道のまん真ん中に停車しているようなドライバーがいたとき、必ず声はかけています。言えば恐縮するような人がやはり多いです(そうでない人も散見しますが)。そこに想像力が働いていないなと見える人に対しては、まず責めるより話しかけてみることがいいのではないかと、そう思いました。

達磨大師

 ちなみに幼い頃の私の恐怖の対象は、二階の座敷の床の間にある「達磨大師」の立像でした。払子を持って右上を睨んでいるわずか30センチぐらいの高さの焼き物です。どうしてあの像があれだけ怖かったのか今となっては不思議ですが、昼間の明るい時でも一人であの部屋に入るのは相当ためらわれたのをまだ憶えています。
 その後達磨大師なる人がどういう人だったかはぼちぼち知りましたが、そういうことに全く関係なく、とにかく怖かったのです。あの像は今でも実家にあるのでしょうか?(よく考えたら、大人になって実家に帰ってもあの部屋だけはほとんど立ち入っていないことに今気付きました…)