想像力をどこに働かせるか

 自分の行為(の結果)や周囲の状況(の変化)を予測すること。これは誰でも生きていく上で必要とする能力でしょう。またその予測から自分の情動の変化がフィードバックされれば、これはすでに想像力と言われるあたりの領域に入ってくると考えます。
 ある意味「空気を読む」という行為もこうした想像力の働きの類ではないかと思いますが、それが必要以上に自分(たち)を縛るという点において手放しに想像力は素晴らしいとも言っていられないのではないかと。また自分を縛ると言いますと、暗がりの恐怖といった類、子供に多くあるとされる「こわさ」への過剰な反応、自分で想像した何者かに自分で怯えてしまう・縛られるといった事態もこの想像力(の負の面)かもしれないと思いますね。


 最近けっこう歩いて通勤するようになって、信号なしの横断歩道で歩行者を全く気にかけない車や歩道に駐停車する車のことがかなり気になります。自分では運転している間にそこらへんの配慮はしようと考えてきましたが、時に配慮しきれないことも正直ありました。そんな時、まあ今は仕方がなかったぐらいに思うようなこともあったはず。
 ところが歩行者の側からすれば、何でこれだけ無神経なことをやることができるのだろうとそのたびに強く思ってしまうわけで、あまりにもその意識にずれがあるなあと感じることしきりです。
 特に後者の歩道に(かけて)駐停車する車の側の気持ちは、自分の気持ちから量ってみると「車道の通行を邪魔したくない」というあたりに一番の理由があるんじゃないかと思います。そこでは同じドライバーの気持ちというものに多くの想像力が費やされ、他の車の邪魔にはならないように配慮しているというむしろ善意すらそこにあるのではないでしょうか。ところがこの場面では歩行者(や歩道を通行する自転車)などに対する「迷惑だろうな」という想像力はほとんど働かないか、せいぜい「一人通れるぐらい空けてるからいいだろう」ぐらいの軽い配慮しか現れないのです。


 車の右左折の時、どれくらい横断歩道の歩行者に配慮するかというあたりでも、改めていい加減なドライバーの多さに気づかされました。実は私が免許を取って最初に違反行為で切符を切られたのが、左折時の歩道上の歩行者に配慮しないという「歩行者妨害」という違反で、後で考えてみると歩行者自身の申し立てが無かったのに張り込んでいた警察に言いくるめられて違反になったのでは…という感も少しだけありましたが、まあ教育効果としてはかなりなもので、その後相当気にし続けているのは確かです。(免許を取ってまだ一週間ぐらいのことでした。忘れもしない北大路から下鴨本通りに向けての左折です。レコード屋の前か何かで警察が取り締まりをしていたのでした)


 立場というもので、人はその想像力の働かせ方を大きく左右もされるのでしょう。自分の想像力と同じように想像を働かせないからといって、それは一概に「想像力が無い」と言って責めることのできるものではないかもしれません。ただ、これはできるタイミングの時しかやっていませんが、たとえば歩道のまん真ん中に停車しているようなドライバーがいたとき、必ず声はかけています。言えば恐縮するような人がやはり多いです(そうでない人も散見しますが)。そこに想像力が働いていないなと見える人に対しては、まず責めるより話しかけてみることがいいのではないかと、そう思いました。

達磨大師

 ちなみに幼い頃の私の恐怖の対象は、二階の座敷の床の間にある「達磨大師」の立像でした。払子を持って右上を睨んでいるわずか30センチぐらいの高さの焼き物です。どうしてあの像があれだけ怖かったのか今となっては不思議ですが、昼間の明るい時でも一人であの部屋に入るのは相当ためらわれたのをまだ憶えています。
 その後達磨大師なる人がどういう人だったかはぼちぼち知りましたが、そういうことに全く関係なく、とにかく怖かったのです。あの像は今でも実家にあるのでしょうか?(よく考えたら、大人になって実家に帰ってもあの部屋だけはほとんど立ち入っていないことに今気付きました…)