和田中の夜間授業2

 昨日は書きかけになりましたが、この夜間授業を企画したところの意図が私には次のように見えたのです。

 私立中にある(と思われる)学習オプションを公立中にも欲しい

 もちろん本当に私立ならばそうしたものがあると言えるのかは私にはわかりません。ただ都市部での私立志向の中、一部の父兄が公立中にも私立並の補習のオプションがあったら、しかもそれが過大な負担でなく手に入れられたら、と思われてこの試みに賛同したという図がそこにありそうと見えるのは確かです。
 言ってみればこれは、ある程度の成績(だと思っている)生徒の学力を伸ばす有形のオプションが公立中にもリーズナブルな対価で存在して欲しいという「私立に対する公立中の機会均等の試み」と捉えてもいいのではないでしょうか。
 こういう見方で考えてみますとこの「夜スペ」に対する批判は、それがどれだけ理想論的、タテマエ論的に整えられていったとしても結局のところ「足を引っ張る」ためにする議論に見えてしまうという危惧があります。いわく「杉並区の税金をごく一部の成績優秀者につぎ込み…」、いわく「偏りのある目で選んだ19名だけ…こっそり税金で作ったエレベーターに乗せている…」。これではちょっと成績が良いからといって一部の生徒が優遇されるのは腹が立つ、ずるを許すな、というような意見と差異があるようには見えないんです。


 かつて日本の村落では、たとえば一軒だけ害虫被害にあわないだとか他の家々が不作の時に平年並の収量を上げるだとかしたとき、その家には犬神、狐…等の憑きモノがいるといったような風評が語られることがあったといいます。それは表向き村八分にする理屈が立たないとき裏で村八分にするようなもので、表に出せない嫉視や不公平感の別の表現としてなされたものではないかという仮説があります。
 自分たちと「同じ」でなければ仲間ではないという感じ方、抜け駆けして得する奴は許せないという隠微な感情は、「出る杭は打たれる」ということわざに端的に表現される非常にムラ社会的なネガティブなもので、あるいはそうしたものが「夜スペ批判」にあるのではないかと見えるのは僻目でしょうか。
 いわく「子どもたちは互いに「あいつはドテラ(=おちこぼれ)、あいつはスペシャル」と烙印を押し合う…」、というような状況が本当に招来されると思っておられるのでしょうか。それはあまりにもこの和田中の子らを低く値踏みした発言ではないかとも思うのです。*1


 話はちょっと変わりますが、中学生相手の塾で教えていた頃、私がもっとも注意していたのは「ひいきしない」もしくは「ひいきしているように見られない」ということでした。誰かが浮いてしまうのを極力抑えていけば教室の雰囲気は良くなり、それが良くなれば何となく皆の学習意欲等が良い方向に向う…。これはごく狭い知見の中でのちょっとした経験則で、大した内容でもないしそうそう敷衍して良いものではないかもしれませんが、少なくとも私はそうしていました。これがそれほど楽ではないのは、たとえば成績上位の子とだけ親しくするようなことがなくても、成績下位の子に指導を厚くしていっても時にそれが「ひいき」に見られるというようなことがあるからでした。
 中学や小学校で一部の先生がボランタリーに成績が振るわない子を特別に指導する、というのは少しだけ美談、いえ今や当たり前と思う人の方が多いような話かもしれません。和田中の「ドテラ(土曜寺子屋)」が問題視されたという話も聞きませんし、むしろそれは落ちこぼれをなくそうとする良い試みとして普通に考えられているのだと思います。でも案外そうした場合でもそれに関わらないような中、高位の成績の子が「なんだかずるい」とそれを見ている場合もあるんですね。そこらへんのご父兄も何となくそう取ってしまうこともあるかもしれません。
 仮定の話ですが、もしこの和田中の試みが「私塾の力を借りて落ちこぼれ対策をする」というようなものであったとしても同じような批判がなされたでしょうか? 微妙なところです。それはそれぞれが想像してみるしかないことではあります。ただもしこの「夜スペ」に外部の助力を入れなかったとしても、それが成績中・上位者だけへの対応だったとすれば、きっとそれなりの批判は出てきたのではないかと思えます。


 成績下位者、中位者、上位者への対応を満遍なく行ない、誰からも文句のない万全のことをする。もちろんそれが理想ではあるのですが、現実にそれをやるのは先生方への負担が過大すぎてどこでも可能というわけにはいかないと考えます。できるだけそれに近づけるためにはどこかでリソースを殖やさなければならない。そう考えてここでは私塾との提携が図られたんでしょうね。そしてそれを可能にするのは「取引」だと民間企業出身の藤原校長は思われたはず。何のメリットも提示しなければ誰も来てくれるはずはない、たとえばそれが評判による宣伝効果、(初期の企てにあったような)教材の共同開発…。そうしたインセンティブを提示した上の「取引」によって、学校や父兄側でも生徒が得られるリソースを増やし、学校側と塾側が双方にメリットを得られるようにするというのがここにあった「意図」ではなかったでしょうか。
 これに対して「教育の理想」とか「公教育のあるべき姿」などで批判するのはたやすいこと(とまで言えば失礼かもしれませんが)。でも理想論を唱えていたって学校にある限られたリソースは微塵も増えません。教員の負担を無限に増やすことはできませんし、疲弊した教員しかいなくなれば学校が良い方向に向うはずもないでしょう。
 まあこれは一つの試み、テストケースとして容認して、公立中学にどんなことができるか模索するそうした企ての一つと見守るのが一番良いように私には思えますね。
 そして、結局平等といい公平といっても「誰が」「どのような側面で」ということを抜きにしては語れないということもよく考えてみられるといいんじゃないかなと考える次第です。

*1:この段の「いわく…」というところは、皆昨日の記事で紹介したJANJANでの批判記事からの引用です

自由vs平等

 フランス革命以来の「自由」「平等」「友愛」という理想を考えてみても、こうしたものが社会の場面場面において相克してしまう(こともある)ということはよく考えればわかることだと思います。たとえば「平等」を強く希求することが「自由」の度合いを低めてしまうなんていうのは、現実社会でも起こりがちなことではないでしょうか。うまいこと良いとこ取りにできれば文字通り理想なのだと思いますが、なかなか実際にはそううまくはいかないもの。結局は兼ね合いを考えて、局面ごとにどちらをどれだけ優先させるのが良いかを考えていくだけ、と言いますかそれが最善の方策じゃないかと。…というようなことを、昨年末あたりからぼんやり考えていました。
 つまりは「自由」だけ「平等」だけ…というのが絶対の(あるいは正義の)尺度ではないという当たり前のことですし、むしろこの二つだけを捉えてみるとかなり相性が悪そうだなといろんなニュースを受け取りながらぼけっと思っていたのです。
 あまり大きな風呂敷を広げても話になりそうもないのですが、こうしたあたりに注目してみれば色々なものの見え方が違うなとは思いました。これがまあ休んでいた間の関心だったというお話です。