気になる記事

 昨日は休日出勤だったこともあって疲れがとれたような気もしない雪の日。ぼた雪が降ってますね。
 おとといぐらいに読んだ記事でかなり気になるものがありまして。
 →人権教育は、ありえない
 というものなんですが、いえ突っ込みどころは満載で、でもそれを突いて否定するというだけではもやもやしそうだったので…。何が一番気になるのかというところを考えてみたら、

…わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。50分も席に すわりつづけるなど、すべての人間が できることではない。あたりまえのことだ。


ではなぜ進学校では、だいたい みんなが授業に参加できているのか。それは、学生を選別したからだ。

 という視点が、自分の考えたこともないものだったからなんだろうなと今考えています。突っ込みは取りあえずおいておいて、この考え方は正直したことがありません。時代的なことや地理的なことでもあるでしょうが、私は地方の普通の小学校に行っていたわけですが「授業を邪魔するようなあり方」をする子は当時全然見たことも聞いたこともなかったです。かつてちらっと書いたこともある学習障害があったかもしれない同級生*1を含め、興味がないなら上の空というのはあっても、授業を成り立たせないようにしてしまう子供も動機も当時の私や私の周囲には見当たらなかったし思い当たらなかったものでしたね。
 もちろんいろんな友達がいて、何かのはずみに授業を放棄して裏山に逃げ込んでしまった子もいたなあと今思い出していますが(その時は大人が大勢青ざめて、半日ぐらい授業はつぶれました)、誰かが普通に授業を受けたいと思っている以上その邪魔はすべきではない…という感じで大学あたりまで思ってきた自分は、よほど「飼いならされて」いたのかとふと思ってしまいました。(当然大学に入っても、出たくない授業は黙って一人で休むという感じでしたし…)
 それこそ「校内暴力」云々の話も(あれは80年代でしたか)、自分は全くかからずに大学まで行っていますので生の状況としては知ることがないものでした。もちろん「学級崩壊」の話になりますと、それがどういうものなのか想像するのにかなり苦心したことも憶えています。
 ですから

 わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。

 とかいう表現は実にインパクトがあるもので、それでどうにも心に残ってしまっているのではないかと…
 当事者かどうかは微妙なところですが、自分では全く意識してもいないところで「お前は排除(選別)してきたのだ」と言われているようで実にアジとしては訴えかけるものがありました。
 「かんがえてみていただきたい」
 と言われて、本当に考えてみたくなる力をこの文に感じます。何を考えるかはそれぞれでしょうけれども。

突っ込み

 それで突っ込みのポイントも少し記しておきます。私が一番大きい問題だと思ったのは、この文で「教育」が即「学校教育」としか考えられていない点です。これではあなたが言っているのは教育の問題ではなくて学校の問題だろうとすぐ言われてしまいます。制度としての「学校」についてはいろいろな論考もあります。でも家庭教育や社会教育を全く考えもしない教育論というのは見たこともないですし、それだけで「勉強しなおしておいで」とか言われそうでそこはとても残念なところ。
 それから、ここで言われている「選別」ということと「人権」ということの関係が実はよくわからないのです。勢いで、話し言葉で聞けばつい頷いてもしまうかもしれませんが、実は「人権を守る」ということと「一切の選別を許さない」ということにはかなりの懸隔があります。それぞれが自分なりの人権概念を持つことは自由ですが、他者を説得するためには自分の考えている「人権」をもっとよく考えてみることが必要でしょう。なんらの条件を考慮せず「一切が平等であるべき」という考えは、むしろ宗教的な概念であるように私には思えます。

教育

 教育とは何であるか、という考え方にはその人が考える「人間とは何か(どうあるべきか)」というところが大きく関わってくるものだと思います。ですから未だまとまって簡潔な形での「教育とは何か」という答えは出ていません。
 たとえばそれを馴致という面で強く捉えたデュルケイム(E.Durkheim, 1858-1917)の考え方に照らせば

 教育とは、成人世代が社会生活に未熟な世代に対して及ぼす作用である。教育の目的は、子供が将来参加するであろうところの国家社会や、特定の社会集団などの要求する一定の身体的・知的・道徳的状態を子供の中に出現させ、かつ発達させることにある。
 …一口でいうと、教育とは若い世代の方法的社会化である

 私が気になったこの記事に書かれている内容など一顧だにされないものになってしまうでしょう。

教育は人権侵害を前提にする?

 ご自分にとっては「自明」でも、ここの部分を説得的に再考していただきたいなあと、もったいないなあと私には思えます。何があなたの言う「人権」なのか、私のようにその「選別された」側で人権教育を受けてきた者にわかるように言えてこそ本当にそうした連中を動かすことができる言葉になるんじゃないかと考えます。
 ちょっと気持ちを動かされるものを感じたからこそ、こう言いたいですね。

*1: 特殊学級の改称 という記事です