自死のある側面

高1自殺:ネット上に「死ね」と書かれ苦に 北九州(毎日.jp)

校長らは連絡を受けて搬送先の病院に行った際、女子生徒の母親から、自室にあった家族あての遺書を見せてもらい、ネット上で「死ね」と書き込みされていた、との趣旨の記述があったという。

 「死ねと書き込みされて死ぬような素直な奴はいない」という複数のご意見をみました。それはそれで妥当な意見かもしれませんが、自殺の遺書にその理由を残そうとする子供の心情の裡には「あて付け・意趣返し」をしてやろうという暗い欲望も含まれているはずでは、と考えています。

自分の子供だった時を考えても、もちろんそれは空想でしかなかったのですが、自分がここでこのタイミングで死ぬ・家出する・消えるなんてことがあればどれだけ○○*1を後悔させてやれるだろうか…という妄想にも似た想像があったと憶えています。

 そこにはそのかわいそうな自分への(暗い)気分の高揚と、たとえばそこで悲しむ・後悔する・責められるであろう○○へのしっぺ返し(の空想)によるぞくぞくする(でも悲しい)快さが正直あったと思います。『トム・ソーヤの冒険』であの陽性のトムや仲間でさえ、そういう想像を巡らしていたじゃないですか。あの作品が名作とされるのも、ちゃんとそうした子供の心に対する洞察を表現し、読み手に確かにそうだったと思い起こさせるところがあるからではないでしょうか。
( 原注:*1:ここには親だとか同級生だとか適当に…)

 よく考えてみるとこの(気分の高揚をも含んだ)暗い情念は、あの「被害者の呪い」に通じるものと思えてなりません。


 ただ、これは悪意を書き込んだ人間の免責を意味するものでもないでしょう。そこに葛藤やら情念やらを生み出させた直接の原因がその書き込みならば、当然それは罰せられて然るべきと考えます。
 誰かにそんな悲しい態度を取らせないためにも、それぞれが方策を考えるべきでしょう。取りあえず「リアルだったら投げ掛けない言葉は使わない」とか、そういったできそうなところから…