車輪の下(ヘルマン・ヘッセ)

 天才的な才能を持ち育ったハンスという少年は、神学校というエリート学校へ2番の成績で合格する。 町中の人々から、将来を嘱望されるが、神学校の仲間と触れているうちに勉学一筋に生きてきた自分の生き方に疑問を感じる。そして周囲の期待に応えるために自らの欲望を押し殺してきた果てに、ハンスの細い心身は疲弊していく。 勉強に対するやる気を失い、ついに神学校を中退する。 そして、鍛冶職人となり、挫折感と、昔ともに学んだ同級生への劣等感から、悲劇の最後を迎える。
Wikipedia日本語版より あらすじ

 コメントで書いたように、細部こそ違えこれが思い出されてしまいました。
 ハンスはエンマに純情をもてあそばれるだけ「まし」かもしれませんが。


 読んでいて苦しくなるトラウマ小説*1では一、二を争うものです*2

*1:一般にはビルドゥングス・ロマンとされています

*2:個人的に

社会的役割

 ある専門職が十全の知識に基づいて社会的役割を果しているとすると、全人口に対するその職の専門家の数と割合と業績との間には、なんらかの肯定的な関係がみられるものである。だから、通信技術者が沢山いる国では少ししかいない国よりも電話網がよく発達しているだろう。医者や看護婦の数が多い地域や国では、彼らの数が少なくとびとびにしかいないところよりも死亡率は低いだろう。有能な経理士の多くいる国では、少ない国よりも、帳簿がどこでもきちんとつけられているだろう。
(S・アンドレスキー『社会科学の神話』)

 残虐な犯罪やら青少年の犯罪に関して、メディアはそれっとばかりに大々的に報じ、様々な専門家という人々はあれこれ分析を試みるわけですが、その「分析」のおかげで有意に犯罪が減るということがあったのでしょうか?
 もしそれらの活動が凶悪な犯罪を減らすことに貢献していないとすれば、その社会的役割とは何でしょうか?


 一つの考え方として、メディアの報道や専門家の分析が「一般の人々の不安」を緩和する役割を果すというものがあります。でもそれだけなのでしたら、それは呪術師が伝統的に行なってきた役割と変わらないものです。文明的な社会での洗練された呪術師。なるほど人はいつまでたってもあまり変わらないものなのかもしれません。


※参考:卒業文集に「ワタシはアナタの人形じゃない。赤い瞳の少女(3人目)」 テレ朝と精神科医が必死に分析(ニュース超速報!)