酔った勢いで

よしなが 少女マンガって、広いじゃないですか。いわゆるオメメキラキラの恋愛ものから、それこそ白泉系の『はみだしっ子』みたいなものまで。でも結局私、少女マンガって一様に言えるのはやっぱりマイノリティのためのものだなと思う。

よしなが 『ハチクロ』は、大人の人のノスタルジーをかきたてるんですよ。ああ、こういうのが本来の正統的な少女マンガだよなぁ、胸キュンの、って。
(『あのひととここだけのおしゃべり』p.26、p.31)

 ついでなんで書いてしまいますが、この引用の上の方、よしながさんが「マイノリティのためのもの」と少女マンガを位置づけるのは自分にとってとてもしっくりくる言い方でした。実際の立場とも(もしかしたら)ちょっと離れて、精神がそちらの方にいるといいますか(たとえ不遜でも未熟でも理解が足りなくても)孤独とか悲哀の方に流れていく自己認識がある時期にはあって、その感情に肯定を与えてくれるものとしてそれがあるというのはとてもわかる気がします。
 で、あるいは「世界に一つだけの花」の歌詞が与える(かもしれない)肯定感もそこに通じるといいますか、あの歌自体、また作った人や歌った人たちとも離れたところで何か汲み取れるようなその歌の内容に、この少女マンガが担っていた自己肯定を与える何かがあったようにも思えるのでした。
 そういう文脈で『ハチクロ』の(ノスタルジックな)正統的物語を見ますと、まさにそのクライマックスで「絶対的肯定」が恥ずかしくも与えられているわけです。(もちろんこのこっ恥ずかしいモノローグ、嫌いじゃありません…というかむしろ大好きです)

 ずっと考えていたんだ
 実らなかった 恋に 意味はあるのかなって
 消えてしまった ものは
 始めから 無かった ものと
 同じなのかなって


 ―オレは ずっと 考えてたんだ
 うまく行かなかった恋に
 意味は
 あるのかって


 消えて行って
 しまう ものは
 無かった ものと
 同じなのかって…


 今ならわかる
 意味はある
 あったんだよここに

 甘甘でご都合主義で独り善がりで懐古趣味的だとしても、当人が欲する時にこうやって「肯定」してくれる存在がいるというのは救いじゃないですか。この可能性を考えただけでも、賢しらに「世界に一つだけの花」を揶揄してしまうだけの立場にはなれません。…ということを、酔いが回って書きたくなったので書きました。

ケータイ小説的。

 ぼちぼち書評を目にするようになってきた速水健朗さんの『ケータイ小説的。"再ヤンキー化"時代の少女たち』(原書房)ですが、私も先日購入して読了しました。これはケータイ小説というものから見えてくる「世代論」だと感じました。
 もちろんそれはある広がりを持つ世代の、しかも地方都市の特定の若者中心という限定付きのものではありますが、まったく自分の視野に入っていなかったユニークな世代集団の生き様といいますか有り様に目を開かされた思いがあります。
 何といってもこの本は「浜崎あゆみ」というキーワードを掘り起こしたところに最大の功績があると思います。彼女に思い入れも何もなかった私には想像もできなかったつながり、ケータイ小説・地方ヤンキー文化・地元つながり・リアル系志向・紡木たく(!)・相田みつを…そうしたものが「あゆ」という存在との相関のもとに語られるとき、一つの独特な世代像というものが現れてくるのでした。
 ネットでは本書の構成の不完全さなどを指摘する声もありましたし、私も前著()に続いて終章の駆け足感などを確かに思いました。ですが、そういうところを補ってあまりあるのが「"彼らにとっての浜崎あゆみ"の発見」です。そこで描かれる「リアルさ」は、むしろ一読後の私の気分をぐっと沈めてしまったぐらいの重みのあるものでした。今後ケータイ小説に関わる文化論などがいくら出たとしても、「浜崎あゆみ」というキーワードを無視できる著者はいないでしょう。それほどに画期的な論考だという印象です。


 さて少々余談なのですが、ここに「紡木たく」の名を見たとき思い出されたのがよしながふみさんの対談集『あのひととここだけのおしゃべり』(太田出版)の一節です。

よしなが すごいローカルな話なんだけど、バレー部とかテニス部の、ふだんマンガを読まない子たちは紡木たくさんに夢中で、私の友だちの少女マンガが好きな人は、くらもちさんと吉野朔実さんだったんですよ。つまり「ぶ〜け」だったのね。『少年は荒野をめざす』か、『A-Girl』かの友だちにわかれてた。
やまだ でも紡木たくさんが出てきて、「別マ」がすっかり変わっちゃった。
 (同書p.15.よしながふみさんとやまだないとさんの発言部分)

 実際私も吉野朔実さんとくらもちふさこさんのマンガは持っていて、紡木たくさんのものは持っていない(というかほとんど未読)です。ここの部分の違い、「ふだんマンガを読まない子たち」とされるような女子の志向が紡木たくに向っていたというのは非常に示唆的だと思います。これは『ケータイ小説的。』に書かれていることとオーバーラップしてくるものでしょうし、また誰かが速水さんの論考を踏み台にマンガ論的世代論まで書いてくれないかなと期待しているところです。