築地市場関連

 finalventさんの記事、■毎日社説 社説:豊洲市場報告書 都は「移転ありき」を改めよ

 あと、よくわからないのだけど、築地ってネームバリューが強いけど、実際の鮮魚の流通を金額ベースで見るとマイナーじゃなかったかな。

 …あたりを受けてちょっとだけ。


 築地市場の取扱い高は「東京都中央卸売市場 総括表等(水産)」で過去6年間の資料が見られます。
築地市場

年次 取扱金額(億円)*1
2002年 5,360
2003年 4,981
2004年 4,933
2005年 4,804
2006年 4,898
2007年 4,873

 漸減傾向ではありますが、いまだに4,800億円規模はあります。
 

 国内の卸売市場における水産物の取扱い金額は、中央卸売市場の総計で 22,035(億円)ですから(※卸売市場データ集)、その中での割合は2割強。これに地方卸売市場の分を加えても、およそ2割弱といったところかと思われます。


 それよりも、ちょうどfinalventさんが追記として書き加えたあたりの問題(市場をパスする流通)がいろいろ考えられてきたみたいで、これに関しては東大海洋研で資源解析・資源管理を研究されている勝川俊雄氏の次のサイトがよくまとめられていると思いました。
 ⇒ 多様化する水産物流通(勝川俊雄 公式ウェブサイト)


 このサイトで書かれている日本の水産物の流通のまとめでは、市場外流通がすでに全流通の40%であり、残りの市場を通すものでも相対取引が(全体の)45%を占め、セリによる流通は(全体の)15%に過ぎないといった現状が示されていました。(コメント欄でのやりとりも含めて興味深いものでした)

*1:端数切捨て

学歴というラベル

 躊躇している間に高学歴難民云々の話には遅れてしまったようですので多くは触れません。諸方で言われるように多分に勘違いの面があったことだと思います。今がお話にならないくらい大学生が少なかった戦前でも(希望通りに)就職できなかった学生は多くいたわけですし(参考:昭和三年度(1928年度)の帝大生の就職率 )、それは多分今なおコミュニケーション能力云々とは違うところで規定されている問題だろうとも。
 それとは別に、元記事はもしかしたら「すべての人が自分の能力・可能性を生かした就職を」という視点が書かせたものかもしれないという感触もありました。そこに聴くべきところもあるでしょうが、「望みの就職なんてできない。でもそれはそれとして…」ということじゃないかと、若くはなくなった今はそう思えるのでした。


 それよりこの話題が結構反響をもたらしたのは、「学歴」というものに何か言いたいと思った方々が多かったからではなかったかと感じます。

 「人間が人間と付き合うのに、どうして学歴を知る必要があるんだ?」
 もっともな疑問だ。
 しかしながら、ラベルのないワインが一流レストランのテーブルにそぐわないのと同じように、学歴の不分明な人間は、公明正大な交際の輪には入りにくいものなのだ。
 「一流レストランの客なら、ラベルなんかあてにしないで自分の舌でワインを鑑定できるはずじゃないか」
 さよう。正論だ。が、世間で言う「一流」というのは、中身についての話ではない。それは単にラベルの問題なのだ。世間の人々とて、学歴がラベルに過ぎないことに気づいていないわけではない。が、現実問題として、人間が人間と付き合う時には、ワインを飲む場合と同じく、いちいち中身を鑑定するよりは、ラベルを見て判断するほうが面倒が少ないのである。
 かように、学歴の問題は浅薄でありながら根深く、しかも曖昧でとらえどころがないうえに、危険かつ不毛だ。それゆえ、ジャーナリズムや学問の世界の人間は、この問題を黙殺している。
小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか。』(光文社 知恵の森文庫)

 本のまえがきで小田嶋さんはこのように扇情的におっしゃっています。ここにあるように確かに学歴はラベルの問題だと思います。
 広く捉えればそれは肩書きの問題と括れるようにも見えますし、他者を判断する際の間接的な情報はどう処理すべきか、ということに帰結するものかもしれません。
 ちなみに小田嶋さんは上の記述に続けて、

 おそらく、学歴がこんなふうにアンダーグラウンドの話題に終始しているのは、それが差別をはらんでおり、しかもその差別がわれわれ日本人一人一人のアイデンティティーに深く関わっているからだ。

 というように述べられてもいて、決して単純に「学歴」バンザイの立場には立っておられません。当然ですが。
 それでも「差別いくない」で、啓蒙してそれを止めさせればよいだけといったような簡単な構図のものとも見ておられないです。詳しくは本書をお読みください。(2005年の版の文庫ですし、いつ在庫が切れるかもしれません。ちなみにあとがきは内田樹さんで、小田嶋さんを絶賛していますね)


 私は大筋で小田嶋節に納得もするのですが、やや自分の状況が異なる所為か違った捉え方を持っているということにも気付かされました。
 自分ならおそらくこれを「差別」というような断定はしないと思います。二次情報で臆断を持ってしまうことまで広く差別と捉えてしまうと、差別を深刻な悪だと受け止めている人ほど生き辛くなるだけでしょうから。私たちは本当に臆断によって多くのことを把握しているのだと思っていますし、修正が効く認識ならば折に触れて修正していけばいい、というあたりのことじゃないかという感じで自分は捉えています。


 就職活動の時に、学歴で門前払いのようになったと嘆かれる方は「自分を見てくれる機会を奪われた」という感じでこれは「差別」だと感じられるかもしれません。確かにケースバイケースで社会的にどうかと思われるものもあるでしょう*1。そういう経験から学歴による判断に否定的になられる方の気持ちまでどうこう言う気はありません。それは当然の感情です。


 ただ一般には、自分が「近しく思う」あたりの人に関しては学歴など関係なくつきあいを持つものだと思います。おそらくそういう方はとても多いでしょう。あくまで学歴などは「遠い人」に対して便宜的に用いられる付加情報というぐらいのもので、そう認識できていれば一般にはそれほど問題にするにあたらないのではないでしょうか。今の私にはそう思えます。
 とにかく、自分の環境(ライフヒストリー、周囲、時代…)によって温度差が出てくる話だとは思いますね。

*1:たとえば、森下仁丹は「京大生はアカだから採らない」と言っているという都市伝説?のようなものもかつてありました。これも差別的と言えばそういえると思いますね