国語の授業

 まあずーっと前の高校の国語の時間、教科書には遠藤周作の『沈黙』が割と長めにとられていました。
 『沈黙』はその後自分で買って読んでいまだに部屋の書棚にある本ですし、読んで涙ぐむときもあるような本なのですが、その時は…


 かわりばんこに朗読する声を聞きながらひまだなあと感じて、『沈黙』のネタ化をしこしこ始めていました。単純に、文の一部を伏せ字にするだけなのですが。

 それでも、フェレイラは黙ったまま、挑むようなうす笑いを頬に浮かべ続けていた。××しい卑×な微笑から、挑むような表情をとるまでのフェレイラの×が手に×××ように×××。わかるだけに、××はこのまま××のように××てしまいたかった。
 「何か、××て、下さい」
 ××は喘ぐような声で言った。
 「もし、私を××××下さるなら、何か、××て、下さい」

 「さあ」フェレイラはやさしく××の方に手をかけて××た。「今まで誰もしなかった一番××愛の行為をするのだ」

 「さあ」とフェレイラが言った。「勇気をだして」

 「ああ」と××は震えた。「痛い」

 で、これを休み時間になったら友達に見せて面白がってもらえるだろうかなんて考えて、そういう妙なことばかりしていたのでした。80年か81年のことだったと思います。
 あれほどの作品でも、授業で読まされるとこういうこともあるという例として…*1

*1:(天国の)遠藤先生ごめんなさい。でも私は北杜夫派でした。

後から来た者

 日本近代文学とかを「教養」として読めとかそこから「学べ」とか、どれだけ若い者は大変なんだということです。漱石が読まれたのはもともと新聞小説として流行っていたからでしょう?『西国立志編』は今でいう人気のビジネス書あたりとなぞらえられるんじゃないかと思います。尾崎紅葉の『金色夜叉』だって今の昼ドラのメロウに直結した人気だったでしょうし、樋口一葉はもしかしたら萌えですよ。まあそれは言い過ぎにしても、田山花袋あたりからの「私小説」分野の広がりは自己告白っていう形に対する覗き趣味的関心がなければ読まれなかったと思いますし、耽美趣味や叙情趣味、自己肯定のすすめのようなものまでそれはもういろいろと「受ける」部分や時代にあった(その気分を写した)要素を持っていたからこそ支持され、読まれ、流行ったんでしょう。映像メディアがない時代、文学方面がそれだけエンターテインメントの役割を大きく持っていたというのは確かなのですから。
 だから一つ一つの作品は決して教養とかではなく享受されるものとしてあったのであって、何かそこから学んだ人がいたとしてもそれはあくまで二次的なもの。今だって何某かのものをマンガから学んだりアニメから学んだりエロゲから学んだりする人がいるみたいなものでしょう。ジャンルを問わず人は「学べる」ものなんですよ。


 そして世の中には絶望的なぐらい新しいものがどんどん出てきています。
 それがちょっと意匠を変えただけのまがい物に過ぎないとうそぶくことはできますが、塵もつもって山となり、いつしか全然違うんじゃないかと思われる何かが目の前にあったりするのはよくあること。
 昔のものに「良いところ」があったという感想は持ってもよいのですが、それが昔のものにしかないなんて本当は断言できないんですよね。
 「漱石の問題はいまだに克服されていない」としても、それ以上に直面しなければいけない大きな問題を現代の人は抱えているかもしれません。そしてその問題は、今馬鹿にされている(ように見える)ケータイ小説のどれかで的確に捉えられているっていうことに、百年もしたらなっている可能性だって否定できないのです。


 昔のものが良いとして、そして一定の割合で世の中に良いものが登場してきているとして、単純にそれを知っているということで一番有利なのは長く生きてきた年寄りであって、不利なのは若い者です。年寄りは単に若い頃にそれと出会えたからという理由だけでエライということにもなれますし、アレも読んでないのかコレも見てないのかという訳のわからん威張りかたもできたりします
(まあ大抵今そうやって偉ぶっている年寄りは、自分が洟垂れだったころに同じように年上に馬鹿にされてきた人だったりするんですが)
 若い人はとりあえず目の前にあるものを味わって、そこから何か学べばいいんだと思います。そこで学ぶことができる人で、さらに余裕があるなら昔のものを味わい学ぶ。それでよいのでしょう。
 「後生畏るべし」ですよ。


 ただものわかりが良すぎる大人っていうのも気持ちが悪いので少し付け足しますと、かつてあった良いものを全く無視するというのは単純に損なのかもしれないとは言っておきます。古いからという理由だけで馬鹿にしてそれに触れないのは、新しいという理由だけでそれを馬鹿にするのとちょうど同じような愚かな態度ですから。