葬送

 ■今朝、祖母が亡くなったんだけど、葬式がめんどくさくて仕方がないの(増田)

 私の家系は無宗教なのに、亡くなった時は真言宗にいつもお経なりを世話してもらってます。しかし、私としては、2日以上も葬式などに時間を奪われる価値はないと思っていますし、この日本文化の意味も全くもって分かりません。しかも、これが終わっても、法事地獄がまってんだぜ!全くこの仕組みが分からん。

 誰が考えたんだろう、こんなメンドクサイシステム。お寺さんか? 昔なら分かるぜ、田舎のほうとかさぁ、でも、この昨今ではこんなメンドクサイシステムする必要ありますか?もっとシンプルに1時間くらいで済ませてくれよと思うのは私だけですか?それとも異常ですか?

 いえたぶん異常ではないですよ。霊魂は無い、死ねば全部そこでお終い、という考え方に立つ人がほとんどになればそれは当たり前の考え方の一つ(他の形も考えられる)になることでしょう。


 ただ私はどう思うかと言えば、まず魂がどうこういう前に死んだからといって即座に「メンバーから外して(社会的意味はないものと見なして)」さっさと片付けてしまう社会よりは今のほうが好ましく思われます。
 死してなおその人は此の世の構成員の一人だったという意味はあります。家族においてはそれ以上のものでしょう。ですからそのメンバーを「送る」のに時間と労力をかけるのはむしろ当然の手間(という言い方はいやですが)であって、逆にそれがなければその人が生きていた意味に対してあまりに無慈悲ではないかと考えるほうです。
 おそらく元増田さんは「自分が死んでもそれでいい」と考えるあまり、他の人もそれでいいと思っているように感じられているのではないでしょうか? それは違うと思います。葬送儀礼は単にしきたりとか慣例とか(商売とか)に留まるものではなく、いまだにその社会が成立するための意味というのも持っているのです。


 それから、葬式の在り方はお寺さんや葬儀社の陰謀だけではないです。まあ葬儀屋さんを頼んで行う街中の葬式では定型のお仕着せになってしまっているかもしれませんが、日本各地に残る(残っていた)葬式儀礼のバリエーションは多く(cf.井之口章次『日本の葬式』ちくま学芸文庫)、それはそれぞれの地方もしくは集落集団の社会を成り立たせていたものであって、やはりそこには意味があるのですよ。もちろんそれぞれの小集団の衰微や消滅とともに個々の意味は消えてしまうのかもしれませんが。
 さらに言えば葬送儀礼自体が重視されるのは本来の仏教的なものではありません。むしろ日本に伝わった仏教に葬送儀礼がある時期から仮託されたのであって、これはもっと根が深いものだったと考えられます。そしてその社会的な意味が本当に皆の考えから無くなるのならばおっしゃる「システム」も当然変わるでしょうし、それが変わらないのは私には単に世間体があるからとか親戚づきあいがあるからといったレベルの話では到底ないものと感じられますね。


 葬送儀礼が「残された遺族や関係者の心を慰めるためにある」という喪の作業(仕事)―グリーフ・ワークの説にも頷くところはありますが、たぶんそれはそういう個人的な要請と社会的な必要性の双方が作り上げた儀礼という意味があるのではないかと。ですから元増田さんがいうほど単純に排せるものとも思えません。


 でも今の時代、儀式そのもののプロトコルについてはかなり自由になっているのではないでしょうか? むしろ通り一遍で済まそうとすれば「お仕着せ」になってお金がかかってしまうもの。亡くなられた方のご意志と残された家族の気持ちさえはっきりしていれば、すでに散骨さえ違法ではなくなっているのですから、それぞれが行いたい「送り」の形でも案外許容されるのではないかとも感じています。
 ただし、他の縁者への説明も含めて、その方がよほど手間がかかってしまうのが実情ではないかと思いますけれども…。

訃報

 大学院の時の指導教官が昨日身罷られたそうです。うちの母よりお若く、ようやく七十の声を聞いたばかりでしたので何ともお急ぎであった感はあります。ご冥福をお祈りいたします。
 週明けには告別式に参りたいと考えていますが場合によっては御葬礼にもという具合で、今は友人知己あたりからの続報を待っております。
 最後にお会いしたのは一昨年の仙台であったかと記憶しておりますが、確かにやや顔色も悪く普通にしていらっしゃるのも楽ではなさそうでした。先生は第二の職を関西に得られていて、忙しさに紛れてこちらからお会いしに出向きそびれるといった次第でした。まだまだと当たり前に思っておりましたので、それはやや悔やまれるところです。
 ただ御宗旨では死を忌まず、それを人に分け与えられた分霊が神様に帰一することと捉えていらっしゃるようで、お悔やみという言葉は避けるのではなかったかと思い出しました。気をつけなければならないところです。御香典も御玉串料となるようです。


 人は死ぬものなのだと、自分もその例に漏れることはないのだとそういう普通のことをいつもは忘れて生きているのですが、さすがに人生の道を折り返してからは時々それを思わずにはいられません。まして浅からぬ縁の方が亡くなられると、一層それを考えさせられてしまいますね。
 たまたまなのですが明日は私の誕生日で、四十路も半ばとなります。もとよりこの年齢になって一人暮らしですし、何を祝うということでもなかったのですが、先生の告別式を控えてはいよいよそれどころではないという感じがあります。いえ、むしろこれはいろいろ死とか生を考えるいい機会かもしれません。逝く人があって、来る人があって、そのサイクルの中でささやかな喜怒哀楽を持ちながら短い人生を過ごすのが人間でしょう。それは言葉でいうほど簡単なものではないですし、また逆に自意識で思い煩うよりも単純なものなのかもしれません。