訃報

 大学院の時の指導教官が昨日身罷られたそうです。うちの母よりお若く、ようやく七十の声を聞いたばかりでしたので何ともお急ぎであった感はあります。ご冥福をお祈りいたします。
 週明けには告別式に参りたいと考えていますが場合によっては御葬礼にもという具合で、今は友人知己あたりからの続報を待っております。
 最後にお会いしたのは一昨年の仙台であったかと記憶しておりますが、確かにやや顔色も悪く普通にしていらっしゃるのも楽ではなさそうでした。先生は第二の職を関西に得られていて、忙しさに紛れてこちらからお会いしに出向きそびれるといった次第でした。まだまだと当たり前に思っておりましたので、それはやや悔やまれるところです。
 ただ御宗旨では死を忌まず、それを人に分け与えられた分霊が神様に帰一することと捉えていらっしゃるようで、お悔やみという言葉は避けるのではなかったかと思い出しました。気をつけなければならないところです。御香典も御玉串料となるようです。


 人は死ぬものなのだと、自分もその例に漏れることはないのだとそういう普通のことをいつもは忘れて生きているのですが、さすがに人生の道を折り返してからは時々それを思わずにはいられません。まして浅からぬ縁の方が亡くなられると、一層それを考えさせられてしまいますね。
 たまたまなのですが明日は私の誕生日で、四十路も半ばとなります。もとよりこの年齢になって一人暮らしですし、何を祝うということでもなかったのですが、先生の告別式を控えてはいよいよそれどころではないという感じがあります。いえ、むしろこれはいろいろ死とか生を考えるいい機会かもしれません。逝く人があって、来る人があって、そのサイクルの中でささやかな喜怒哀楽を持ちながら短い人生を過ごすのが人間でしょう。それは言葉でいうほど簡単なものではないですし、また逆に自意識で思い煩うよりも単純なものなのかもしれません。