学生の客意識

 ⇒博士課程の学生からみた大学と大学院がクソな理由
 いろいろ言いたいことの一部でしょうから、全部にどうこうではなくて目にとまった部分だけ…

 そういった教育がなされている一方で、学生は(少なくとも自分は)純粋に自由に勉強がしたいと思っている。非常に高額な学費を払っていて、大学にとっては客な訳だから、それ相応のサービスを受ける権利があると思っている。

 自分が院生だったときにも、大学や教員や大学院(システム)がクズ、と思うことは何度か(何度も?)あったように記憶しています。
 ただ自分が「大学にとって客」と思ったことはなぜか無かったですね。一方的に自分が客だと考えていいものか、そこらへんは微妙でしょう。


 ある意味共犯関係と言いますか、少なくとも院生にもなれば大学や先生の看板を背負う(背負わされる)機会もでてくるはず。それを学生側は利用できますし、また教員側は滅多なことを学生にさせるわけにはいかなくなるんですね。
 まっとうなことをさせたいと思うあまり学生の自由を縛りすぎるのは問題ですが、「学生の研究業績」をたくさん挙げさせて得をする、そしてそういう得をしたいがために学生に研究課題を割り振るという教員はいないんじゃないでしょうか。

アカデミックの世界で自立して研究活動が行えるような研究者を一人でも多く輩出出来れば、自分の実績や研究室の実績を上げることが出来るからだ。

 こういう話は聞いたことがないですね。最近は研究費の多寡を業績で決めるところが多くなったとは聞きますが、それはほとんど本人の業績による加点減点であって、学生への指導の善し悪しなんかは評判の高低にはつながっても本人の直接の利益にはならないはずですよ。(あくまでも知る限り、ですが)
 むしろこれは残念な話。一生懸命指導しようが放し飼いをしようが、直接のインセンティブになりにくい(→いい指導かどうかは教員の良心や取りあえずの能力・力量に任されてしまう)ということですし。これでは相性の悪い学生に冷ややかな態度を取るような不心得者が無くなる方向へは行き難いですよね。


 学部生あたりの話になりますと、大学にとっては「お客」であると同時に、社会に出した先の企業等を「お客」と考えれば「製品」でもあるわけですよ。粗悪品を出せば評判が悪くなって、引き合いが来ない大学になれば学生も集まらなくなって、これは悪循環になります。こういうフィードバックは個々人の教員に来るよりも大学という組織には働きやすいものでしょう。


 単純に自分を「お客」と考える学生が多いのかどうかそこら辺はわからないのですが、以前にも書いたように直接学生が納入する金額だけで大学がやっていけるということはありません。
 ⇒「大学の先生は学生の授業料で食っているのか?」
 授業料収入が大学経営にどれほど寄与しているかは千差万別ですが、最大級の寄与がある大阪外語大学ですら46.4%と半分に満たず、学生が「授業料で食わせてやっている」と威張れるような実態は少なくとも元の国立大あたりにはないということです(まして旭川医科大学の2.9%などに至っては、授業料はほんの飾りのようになっているのでは…)。


 客だとしてもただの客ではない、そういう見方をすればまたいろいろ考えもかわるんじゃないかなあと少し思いました。

知識と知恵

 私は知識というものは体系化を志向するものだと考えています。そしてその知の体系に何某かを加えるものが学問といわれる活動ではないでしょうか。
 これに対して知恵というものはその場、時宜、事案に応じた知の使い方、応用、機転の働きを主にいうもので、知の総量的なものが少なくても、時にとても巧みに知を活かすこともできるといったイメージを持っています。
 情報としての知を習得するのが勉強です。量的に知を増やすことで裾野(引き出し)が広くなり、知恵を巡らす機会は増えるはずですので、その意味では知恵の方にも勉強は必要。そして自分の中に知をいただくばかりではなく、そこに何か付け加えたいという欲求が出てきた時、それは学問の営みになっていく…そういう感じかなと。


 ですから決して知識と知恵、学問と勉強といったあたりに基本的に上下関係は無いと思うのです。知識を持ち上げたりくさす必要もありませんし、学問を別に神聖視する必要もありません。それぞれの役割が違うという話だけで考えてみればいいのではないでしょうか。
 人によっては最低限の知でも良いと、それをうまく知恵で使って社会に参加できるなら結構だということにもなりますし、人によってはどんどん知の体系作りの側に参加したいという欲求が出て、そのために違う分野の知識を入れている余裕がなく専門馬鹿的に言われてしまう人がでたりもするのです。でもそのどちらもまあ自分の選んだ道ならば、満足して生きていける道かなと思えますし、変に批判などするものではありません。


 高等教育というあたりは、この役割の選択のために若い人が右往左往する場所であるように思います。大学が就職予備校であってはいけない、ということでもないだろうと。それはそれ、自分の適性は知に何某かを付け加えることにはないと思うならばそこで社会に参加していけばいいのですし、そちらの方に欲求を感じるのでしたらさらに進めばいいのだと思います。


 まあ適性と欲求が離れていたり、環境や状況の有利不利があったりするのは世の常。思い通りに行かない場合などたくさんあるでしょう。
 でもそこに上下関係やら何やらを見ないのでしたら、その点で鬱屈することなく生きていけますし、それは精神衛生上非常によろしい、と言えることだと思うのです。