表現の自由派

 ⇒エロゲ問題についての意見(Living with Pains)
 こちらの意見、これも一つの考え方ですし一定の方々には賛同もされるものかとも思いますが、結構これは怖いのではないかと感じてしまいました。


 少なからざる人が、おそらくこちらに書かれたものと同様に「個人の嗜好」つまり考えることがある事柄*1を「実際の脅威」と短絡して、批難できる(というかすべき)と考えてしまっているように思えます。
 考えて行為するところまでいく人もいれば、妄想だけで実行はしない人だっています。その善悪が実際に問われるのは「何を為したか(してしまったか)」のところに置くべきではないかと私は考えます。つまり思考(志向・嗜好)に踏み込んで善し悪しを語ってしまうのは行き過ぎではないかということです。


 ここでは性暴力に怯える女性の感情を以て、「表現の自由」を「自らの嗜好を守りたいがため」に振りかざす人々への批難が語られます。しかし実際のストーカーや痴漢の加害は批難されるべきにしろ、誰かの何らかの嗜好をそれと同列に語ることができるものでしょうか。また表現の自由を主張する人が皆何らかの嗜好を守るという動機で動いているはずと言い切れるでしょうか。私にはそれは思い込み半ばでしかないように見えます。


 私は陵辱シチュエーションが嫌いです。嫌悪して、避けるほうです。でもそれで表現の自由を縛るべきとは思いません。この点ではRyouiさんと全く逆に位置しているかもしれません。
 自分ではリベラルな志向でそういう考えを持っているつもりです。
 個人の生き方の自由、その多様性を認めるのがリベラル的立場、と断定できないことが最近は多くなったような気がします。旧来のリベラリズムを逸脱するその違った形の「リベラル」な主張は、より「平等」や「公正」に軸を置くものと見受けられます。
 そちらの「リベラル」には賛同できるところもあればできないところもあり、自分は「自由」の方をより重視したいと思っているんだなあと省みて思います。
 自分の考え方は、公/私の別を考えた時に私的部分に規制や公権力の介入を避けたいとするものだと思えます。とりわけプライベートな「考えていること」には基本的に誰の介入も受けない方が良いとする価値判断です。言い換えれば思想・信条の自由を特に重く見ているということにもなるでしょう。


 これに対してそういう自由は真の平等や公正につながらないと考える立場、むしろ後者の価値を上位に見て私的部分に働きかける必要を唱える方々がいらっしゃいます。そういう立場は、社会的・文化的な権力構造・言説などがすでに誤った働きを及ぼしている(だからそれは是正が必要)と考えるものだと私は理解しています。ですがともすればそれは、その不正な構造が各人の人格形成においてすでに歪みを生じさせていると考え、その歪みの矯正をしてこそ公正な社会になるのだと唱えるところまでラディカルになったりもします。
 私はその立場は採りません。変革が必要になる(もしくはそれが必然)ならば漸進的にそういう方向に向かうであろうと考えますし、何が正しいかについて自分が思うことは「たまたま」そうなっているだけなのではないかという懐疑的な考え方もするからです。


 何より、私に取っては誰かの思考(志向・嗜好)に介入するということ自体が最高に危ないことに思えます。もしそれが必要になるとしてもその判断にどのくらいの正当性が認められるか、それは徹底した検証を必要とすることなのではないでしょうか。
 せめて「何を実際にしたか」を基準とするのでなければ、他からの勝手な推測・憶測で「予防拘禁」だって出来てしまうでしょう。「危ない」という一方的な偏見だけで誰か(あるいは何か)に縛りをかけるというのはできるだけ少なくしなければならないことですし、もちろん公権力を動かす局面では細心の上にも細心であって欲しいと考えます(できれば無しにしてもらいたいとも)。

 ですから、レイプが好きという嗜好が存在するだけで、女性が恐怖におののくのはもっともなわけですよ。自分が被害をうけるわけでなくてもですよ、自分がいつされるかわからないようなサディスティックな暴力を楽しむ人間がいることに恐怖を感じる。これはいたし方の無いことだと思います。


 しかし、エロゲ規制に対して反応した人たちは、自分たちの嗜好を守りたいがために、そうした女性の気持ちを慮ることが少なかった。「表現の自由」という正義を振りかざし、彼女らの恐怖を不合理と断罪しました。

 相手の気持ちを慮ることがない、というのは往々にしてお互い様になってしまうことです。ここで語られるRyouiさんの頭の中の「恐怖におののく女性」は、おそらくサディスティックな暴力を楽しむ人間を慮っていません。それはつまり「陵辱表現は好きで…過激な表現を楽しむ」そして同時に絶対に実際には陵辱行為をしないであろう(ですよね?)Ryouiさん自体を理解していないということでもあります。
 それでRyouiさんは良いと思い、また少なからざる人たちは良くない・違うと思った。そういうことではないかと見えました。(その違うと思った人たちが「はてな」を代表しているとは私は思いませんが)

 自由という理念は確かに崇高ですが、民主主義においてもっとも重要なのは、各々の個人に平等に尊厳が与えられることだと僕は思います。表現の自由派は、彼女らの尊厳を無視したと僕には感じられました。これが差別でなくてなんなのでしょうか。僕には、はてな民の行動自体がequality nowの主張を裏付けているように思えてなりません。

 私に取っては「平等という理念は確かに崇高でしょうが、もっとも重要なのは自由ではないか」ということになっているのかもしれません。また「表現の自由」を言うことが誰かの尊厳を冒すことになるとはどうにも考えられないのです。
 表現の自由を主張して怯える彼ら(彼女ら)の気持ちを慮っていないという考え方はあるにしても、それが片務的に誰かに課された義務であり、それが「彼ら(彼女ら)に対しての差別だ」とは私は言えることではないと考えます。
 もちろん怯える誰か、弱い立場の誰かが少なくなっていくことは望ましいことです。ですがそれを以て直接、当然のように(他の)誰かの自由、なかんずく誰かの思考(志向・嗜好)の自由を縛ったり「強制・矯正」すべきだとすることはできないのではないでしょうか?
 優しさを求める言葉は悪くはないです。でもそれが糾弾調になるのは、どうにも私の嗜好に合わないと思ってしまうのでした。

*1:これについては全く個人差で、一概にどこまで考えているかなど言えるものではないでしょう

世界の一部はすでに…

 例の日本代表Tシャツ、


 世界を


 驚かす


 覚悟がある


 ですが、多少あれでもその意気や良しと私は買っています。
 勝負事ですから、頑張って欲しいもの。


 ただし、下に続く英字の方にはちょっと首をかしげるところが…

 EVERY TEAM NEEDS DETERMINATION

 はともかく、

 IMPOSSIBLE IS NOTHING

 の方は、おやっと思ってしまいます。
 もしかしたらこれも演出。敢えて、わざとそうしているのかもしれないとも思わないでもないですが、

 NOTHING IS IMPOSSIBLE

 の方が普通でしょうね。当たり前の英語表現の発想。
 これを「不可能は無い」のベタな直訳で

 IMPOSSIBLE IS NOTHING

 ということにしたのは、ユニークさを求めたということなのかあるいはただの間違いなのか。
 すでにこれを目にした一部の世界は驚いてしまっているかも、と思えて…。


 Impossible n'est pas francais.
 ナポレオンのこの言葉も「不可能はフランス語ではない」ではなく
  我が辞書に不可能という言葉はない
 なんて訳してしまうぐらいですから、「不可能―ない」という組み合わせが凄く好きなんだと思います、日本語的に。
 nothingが補語になっているのを見ると、やっぱり「無価値」とか「無意味」とかいうあたりに思えて、
 「不可能は無意味」
 みたいに読んでしまうんですよ。全然意味が通じないわけでもないですが、「不可能はない!」という意志を伝える目的にはどうかなあなんて感じてしまって。何か奥歯にものが挟まった気がする今日この頃です。
(はっきり英字まで読めたのはウズベキスタン戦以後でしたので、いまさら気になるのでした)