Itary: Pluralism Takes Root(イタリア:多元主義の定着)

 イタリアでの過去の医療倫理の議論はカトリック/非カトリックの対立軸で行われてきたのだが、最近になってその議論はより過激に、よりイデオロギー的に多様になってきた。しかしながら、少なくともアカデミックな観点から見れば、カトリックのライターは未だ彼らの俗界のカウンターパートよりもアクティブである。カトリックは彼らの強力な伝統と確固とした原則に信を置く傾向があり、しばしば新しいポジションに注意を払わなすぎることや軽々しくそれらを不道徳(immoral)と決め付けてしまうことについて批判される。確かに「対話」の時代、「aggiornamento」の時代は終わったようであり、「教会」(Church)から強い立場(strong stands)の新しい波が広がってきている。もしこれが続くようであれば、真の対話はドラスティックに減っていき、予期せぬ帰結をもたらすだろう。
 しかしながら、一般に社会ではカトリシズムの影響は衰えつつあり、おそらくかつてしばしば主張されたようにはもう強くはないだろう。多くの人びとが生命倫理的な問題に関して教会の意見(pronouncements)から独立した彼ら自身の意見を形成しつつあり、彼ら自身の「道徳的直観」に従って生きるようになってきているのだ。

The Vatican Instruction on IVF

体外受精(In vitro fertilization)に関するバチカンの指令)
…教会の影響力の低下の一例。この指令のマスメディアでの扱いは小さく、カトリックの新聞のみが一面に掲載。ほとんどの新聞はこれに対して批判的なコメントをつけ、テレビ番組ではE.Lecaldano教授が提唱されたカトリックの道徳は法によって施行されなければならないと批評した。筆者の印象ではこのバチカンの文書は人びとの日々の生活にほとんど影響を与えなかったし、IVFを研究し実践している医師たちにはもっと影響を与えなかった。
 にもかかわらずIVFは近年イタリアで重要な問題となっており、法案も多く提出されている。保健省が諮問した専門家33人による委員会の多数派(というよりほとんどの人)はカトリックだった。この委員会のレポートはAIH(配偶者間人工授精)とAID(非配偶者間人工授精)についての二つの法案を主張した。前者はAIHを認めるものだということでリベラルすぎると批判され、後者はAIHが有効でない場合のみ夫婦にAIDを認めるということで保守的すぎると批判された。また他に強く批判された点は、包括的な代理出産の禁止と胚の実験利用の禁止であり、また中絶を求める女性へ養子を勧める示唆についてであった。IVFへのカトリックの主要な反論は、それが人間愛の尊厳への対立物だということだ。なぜならそれは子供は「授かる」ものでなく「つくる」ものだとするからである…。
 もしこの委員会が社会に充分なインパクトを与えなかったとしても、1986年11月にNaplesで最初の性別選択幼児(の女の子)が生まれたことが多くの論争とメディアの興味を生み出したのは事実である。新しい(バチカンの)指令が予告されたが、その後なにも新しいことは聞こえてきていない。

Sterilization and Divorce Law

不妊(断種)と離婚法)
…イタリア最高裁(Corte di Cassazione)の最近の意見では自発的な断種は今やイタリアでは違法ではない。自発的な中絶、自発的な断種、避妊、そして避妊薬のコマーシャルは長きにわたり違法であった。このためイタリアでは、70年代中ごろに至るまで、避妊薬が避妊薬としてではなく性病の予防薬もしくは月経周期の調節薬として入手可能となっていた。1978年の堕胎法はそれまでの旧法を廃止させ、自発的な断種も避妊や堕胎(外科医・ソーシャルワーカー・心理学者によって慎重にケアされたもの)と同様、許されたようだった。
 だが1980年に一人の外科医が断種手術により起訴された。82年地裁で無罪放免、85年フィレンツェの高裁で禁錮一年(医師は患者の要求があっても断種は許されないとの判決)、そしてローマの最高裁はその高裁判決を差し戻したのだ。今からは国立の医療機関でも断種手術が受けられるし、議会ではより完全な法案が審議されようとしている。
 1987年3月3日、議会は新法を承認した。それはより容易に離婚を許すものである。それまでは夫婦が法的に別れるまで5年かかっていたのだが、3年で十分になったのだ。キリスト教民主党でさえこの新法を歓迎している。70年代に彼らは激烈に離婚法に反対していたのに…。

Euthanasia and Life-Sustaining Treatment

安楽死と生命維持措置)
…イタリアで医療倫理の議論としてもう一つ大きなトピックになるものに安楽死問題がある。現行法の生命維持措置に関する規定は非常にあいまいである。その停止・継続に関する決定のほとんどが医師の裁量に委ねられていて、彼らは大きなジレンマに陥っている。医師は通常患者の利益を追求しなければならず、できるだけその生命を永らえるようにするのが仕事だからだ。意識が失われたら生命維持装置をはずしてくれるよう頼む患者がいたとしても、医師は患者の生命を維持する義務を負い、それができなければ罰を受けるかもしれないのである。それゆえほとんどの場合、医師たちは(彼らにとって安全な)生命維持の継続という方向へ向かう。
 1984年12月、Loris Fortuna上院議員は「生命の尊厳保護のために消極的安楽死の実践を規定するための法案」を提出した。彼はかつて60年代終わりに離婚法を提議し、70年代半ばに堕胎法を成立させたことでも有名な議員だ。「消極的安楽死」というタームが法案名にあるものの、新法は生命維持装置を外すための法的に厳密な手続きを定めたものになっている。
 このFortunaの法案は、患者が生命維持装置を外してくれと要求できるようにするもので、その要求を受けた場合法廷が内容を審議し、さらに法廷が医師に生命維持装置停止の許可を与えるという仕組みだった。だが85年の12月にFortunaが死去して以来、法案はたな晒しになっている。
 86年の7月にカトリックのグループが全く異なるパースペクティブからの新法案を提出した。それは明示的にいかなる形態の安楽死をも拒絶するもので、治療拒否の可能性への同意をも制限するものだ。だがこの法案はあまり社会の注意を引いていない。
 最近のヨーロッパ医療コードのブリュッセル宣言はいくつかの議論を引き起こした。それが消極的安楽死を許容するものだとメディアでとり上げられたからである。だがイタリアのイエズス会のジャーナルで影響力のある"Civilta' Cattolica"の論説は、この新しい医療コードが「消極的安楽死」を許容するものでなく、教会の教えに同意するものだと明らかにしようとした。しかしながら(この医療コードの)article12は、最後まで患者の面倒を見る義務と、患者がその尊厳を維持することができるように行動する義務を強調しているのだ。確かにこの新ヨーロッパ医療コードは「消極的安楽死」のパースペクティブにより馴染んでいるようにみえる。

Transplants in Italy

(イタリアでの臓器移植)
 現在一つの法(1967, n.458)が肝臓移植を許可し、もう一つの法(1975, n.644)がより一般的な他の臓器(脳と生殖器を除く)の移植を可能にしている。この二番目の法に従えば、人が医学的死を迎えたり脳死になった場合、親族が臓器移植の許可を与えることが許されている。
 (移植の際)死はことなる分野のエキスパートからなる三人の医師による二つの異なるチームで全員一致により決定されねばならない。問題は親族の許しを得るところに存する。ここ数年脳死法について誰も文句をつける者はでなかったが、人々は依然として(脳死に)懐疑的でありおそれを感じている。それゆえ多くのケースでは両親(あるいは親戚)が移植に対する同意を拒絶している。イタリアの臓器移植提供者団体(A.I.D.O)は広く広報活動に努め成功しているが、臓器の需要を満足することはできていない。現在およそ1700人が肝臓移植を待ち、400人が心臓移植の待機をしている。昨年、北部で93人、南部で20人が臓器移植できなかったために亡くなっている。バイク乗車時のヘルメット義務化法1986年7月に通って以来、状況は悪くなっている。たとえば1986年9月から1987年1月の間にローマでは一件の心臓移植事例もない。なぜなら心臓が入手可能にならなかったからである。
 臓器提供者の数が不足しているということはなかなかメディアで話題にならないが、それは医学会では常に問題になっている。現在の不足状況を解決する一つの示唆は、証明責任の逆転である。今は臓器移植の許可を得るために親族の同意を取ろうとしているが、基本的にすべての市民が臓器移植に同意しているとみなし、臓器移植を拒否する場合には、明確にそれに対して拒絶の意思をもっていたことを証明しなければならないとするのである。これは明らかに効果のある方法だと思われ、法案も用意されている。しかしながらこれは、医師にあまりに多くの権限がもたらされるということばかりでなく、親族にあまりに時間がない(脳死からわずか6時間ぐらいで証明するものを見つけて提出しなければならない)ということでも反対されている。
 いくつかのグループはこの「同意みなし法案」に反対しているが、静かに着実に法案賛成派はことを進めている。カトリックは法案反対派の強力なサポーターであるが、彼らのうち一定の人々は他の形での「同意みなし法案」をサポートもしているのである。もし医療界からのプレッシャーがより大きくならなければ、同法案への変更も議論されるかもしれない。

AIDS

 AIDSは他のいかなる地域とも同じように最近イタリアでも大きな問題になってきている。保健相はこの問題を研究している30人の医療エキスパートによる委員会を招集した。しかしこの招集はいささか議論を呼んだ。少なくとも一人の、エイズ患者の取り扱いの主要なエキスパートが含まれていなかったからである。
 558名の事例が報告されたが、そのうち305名(54.6%)は麻薬中毒患者、152(27.2%)名はホモセクシャルの男性、28名はホモセクシャルで中毒者の両方、29名は何度も輸血を受けた者で、その他の者が12名いた。AIDSをこわがる風潮の中で、何人かの人たちは病気にかかったことを怖れるあまり自殺を企てていた。
 それまでAIDS問題に関して学問的分析がなかったこともあり、人々は委員会のレポートを心待ちにした。しかし斯界の権威が献血自体にはエイズのリスクはないと表明したにもかかわらず、献血だけはドラスティックに減少していった。この混乱期(もしくは方向性のない時期)に、いくつかの私企業が、自社の社員に対してHIVウィルスを有しているかどうかのスクリーニングを行った。スクリーニングの拒否すら解雇につながるということで、この会社の行動は政治的に大きな議論を引き起こした。だが最大の労組ですら、これに対してはっきりした態度は打ち出せなかった。
 自分たちのポジショニングに迷いがなかったのは、エイズ患者は「objective moral disorder」の住人がほとんどであるとメディアで公言していた少数の知識人たちだけのようであった。それは抜きにしても、いまだこの新しい病気によってもたらされた多くの問題がいかに解決されるかは明らかではない。予防への強力なキャンペーンとして学校で教えられる性教育が重要であろうが、それ以外の解決方法はforeseeableである。

A Growing Interest in Bioethics

生命倫理へつのる興味)
 医療倫理についての議論の多くが法改正の可能性によって引き起こされている一方、学問的なディベートは着実に積み上げられ、生命倫理に対する一般の興味も増加してきている。
 一般に、医療的議論はより多元論的になり、より多くの人々、より多くの機関を巻き込んでいっている。しかしながら、カトリックと非カトリックの間での真の対話が避けられてしまうのではないかというリスクも存在しているのだ。もしこの状況を補修するためのまじめな努力がなされなければ、イタリアの生命倫理はおそらく、そして不幸なことに、意見の食い違った無関係な二つのグループによる「dual identity」という形で発達していってしまうことになるだろう。
(おわり)


 かなり昔の状況なのでほんの歴史的な参考にしかならないでしょうが、イタリアにおいてカトリックの退潮が認識されているわりには、そのカトリックが思想の一方の軸としてとても重視されているようにも見えました。