高山寺のこと

 キリンビバレッジの茶来(サライ)のCFを見て思いました。「これは間違っているのでは?」


 コマーシャルでは「開山八百年。栂尾山高山寺習ひ」とナレーションが入りますが、もともと栂尾とは山号ではありません。少なくとも十年前はそういうことを言う人は誰もいなかったはずです。たいてい「栂尾の高山寺」という言い方でした。(たとえばこちらのように 茶の伝来と宇治茶「京の栂尾の高山寺明恵正人(ママ)」)
 ところがネットで検索してみると、確かに「栂尾山」という言い方をするところが散見されます。たとえば京都市観光文化情報システムにさえ「13世紀に再興された栂尾山高山寺が地名になったといわれる」という表現が使われているのです…。

山号 寺名の上につけられる<山>の称号。中国で、寺の所在を示すために用いたのにはじまる。わが国では、奈良時代は、主に平地に造られたので山号はなく、平安時代、山上に造られた寺は比叡山高野山など山の名を用いたが、いわゆる山号ではなかった。中国で禅宗の代表的寺院に五山・十刹の制が定められ、鎌倉時代禅宗とともにこの制がわが国に伝えられると、巨福山建長寺など寺名の上に山号が付けられるようになり、鎌倉五山京都五山などがえらばれた。その後、他の宗の寺院も、寺名の上に山号を付けるようになった。
(岩波『仏教辞典』中村元他編、1989)


 明恵房高弁(明恵上人)が後鳥羽院から栂尾の地を賜ったのは建永元年(1206)ですから、確かに800年が経ったとは言えます。ですがもともと栂尾は「山」の名称ではありませんし、この栂尾という表記自体にしても最初からあったものではありません。

 建永元年十一月、院より神護寺の内(木都※)尾の別所名付けて十无尽院と言ふを賜る。同じき廿七日彼の所に移住す。但し、同じき廿日より、法性寺禅定殿下の仰せによりて、彼の御殿の中にして、宝楼閣供を勤修せしむ。同じき廿六日結願すと云々。(『夢記』原漢文。※は木へんに都)

 ここでは(木都)尾という類がない漢字が用いられていますが、これは「とがのを」と訓んだことは確からしいです。これ以前には平安時代の『日本高僧伝要文抄』で「度賀尾」と書かれた例があるのみです。そして明恵上人自身が五年後の建暦元年(1211)に「起信論義巻下」の奥書で

 建暦元年六月十二日午剋於梅尾住房奉読授比丘尼浄親了
 花厳宗非人高弁

 と記して以来、鎌倉期全般にこの「梅尾」という表記が使われ続けます。ただし訓み方は一貫して「とがのを」であっただろうことは、明恵上人に関するこの時期の他の資料から読み取れます。なぜ表記だけ梅尾にしたのかについて、奥田勲氏は「すなわち「栂」のような、いわゆる国字の使用は避けるべきものだったのではないか」と推測されています(国字とは日本で創られた漢字のこと)。
 「栂」の字が用いられはじめるのは鎌倉を過ぎた中世の時代からで、たとえば初期の例としては文安三年(1446)九月十二日の『細川国賢書状案』に「栂尾密御房」と書かれているのが知られています。


 おそらく最近になって、寺名には山号があるものだと妙な先入観を持つ京都以外の方によって、栂尾山という山号が「勘違い」で言われるようになったのだと思います。また、それに引きずられて京都市のサイトでも誤記があり、さらに間違いが拡大してキリンのコマーシャルまで来たと。たぶんこのコマーシャルの所為で「勘違い」はさらに増幅していくかもしれませんね…。ちょっと残念です


 京都府のサイトの京都府の文化遺産のページ世界文化遺産に登録された高山寺の説明がありますが、ここにももちろん山号は書かれていません。
 また、先に引いた岩波の仏教辞典でもいくつかの名のある寺院の項目があり、高山寺の項には山号の記述はありません。(他にたとえば浅草寺なら「山号は金竜山」と明記してあります)


 高山寺明恵上人に興味を持たれたら、以下の書籍などがお勧めです。特に今日の高山寺の件では奥田氏の本を参考にしています)

 (ちなみにこれらの書籍で「栂尾山」という山号は一箇所も出てこないことを付記します)


 ただCFで石水院の座敷からの風景が出たときにはちょっと懐かしく感動しました。以前はほとんど人影もまばらなこのお座敷で、「樹上座禅像」の模写(たとえばこちら)を見たり、風景を見たりしてほぼ一時間ぐらい一人でのんびりできたのを思い出しました。そういえばもう時効だと思うのですが、帰りがけに敷地内のお茶の葉を一枚引っ張っていただいてきました。高山寺さんごめんなさい。