強いは弱い
Fair is foul,
and foul is fair
きれいはきたない
きたないはきれい
ムラ社会と言われるものの一つの特徴として、誰か一人抜きん出ることへの嫉視というものがあるでしょう。
誰かが苦境に陥れば黙って助けるという美質と同時に、誰かだけがおいしい思いをすれば陰口を言ったりなんとなく疎遠になって仲間はずれに近くなったり…
これは「出る杭は打たれる」に通じるいやなものとして感じられますが、このムラの倫理は効用として平準な社会を維持するという倫理的働きを持つとも考えられます。つまり突出することへの心理的抵抗感が、そのムラ内での横並びを結果的に生み出すことになるのです。そしてそこで醸成される平準な横並び感覚が、ちょっと困った仲間を助けるという美質をも支えているのかもしれません。
昔話の中でも「朝日長者」とか、出頭人の金持ちは碌な終わり方をしないという教訓話が少なからずありますよね。そこでは同時に濡れ手にあわの幸運も望まれているにもかかわらず、そういう幸運がもたらす悲劇も語られることによって何らかの規範意識というものが伝えられているのではないでしょうか。
そして今
強いは弱い
弱いは強い
ステレオタイプではありますが、「弱者」の立場と認められた場合に、正義まで手にすると申しますかある種の立場の強さを認めなければならないというような風があるように思います。また逆に、社会的地位とか金銭的余裕があるものは、粗探しされたり争いごとでは悪人的(不利な)立場を想定されたり…。メディアが率先垂範しているようにも思います。
これは何らかの新しい「倫理」が作られていると考えるべきなのでしょうか…