駒大苫小牧選抜辞退

 野球部の監督、部長、それに校長も辞任の上、選抜高校野球の出場を辞退する(ニュース:駒苫辞退、消えたセンバツV本命)とのことですが、これに関して元の事件である「卒業式を終えた高校生たちによる宴会(飲酒・喫煙)」について賛否が様々書かれています。これについて私は二つの見方を持ちます。

自分が犯していない罪に対する責任

 連帯責任というものは常に不条理です。自分が避けることのできなかった問題について、責任を取らされる人が出てくるからです。私はある種古典的な自由意志に基づく責任論「その行為をしない可能性、予見の可能性があり、回避できた可能性がある場合にのみ責任が成り立つ」というものに拘っていますので、飲酒・喫煙などを行わなかった下級生が出場機会を奪われるのには賛成できません。


 その不条理込みで「内輪なんだから・仲間なんだから」と責任をとるのは、厳格責任(とか代位責任)論で説明がつくものでは決してなく、それは「内輪の論理」なんだと思います。近代的個人と言いますか主体というものよりも、内輪の論理を教えるというところはさすがに日本的な伝統校なのかなとちょっと皮肉に思いました。


 先の大戦で日本が犯した行為に、戦後に生れた私たちの責任もあるんだとおっしゃる方々がいらっしゃいますが、そういう方もこの高校と同じくとても「日本的」な内輪の論理に捉えられているのではないでしょうか。それを選択するかどうかは、正しい正しくないの問題ではなく、個人の選択・判断に依るのは申すまでもないことに思われるのですが…

高校生が飲んだって…

 というようなことは、自分が子供の立場だったら言いかねないことでもありますが、これには賛成できません。子供の自主性・判断に任せようというなら、言い方を換えれば「自主性」を持った責任を取れる人格として認められるなら、彼らを「大人」とみなすべきです。成人年齢を下げ、義務・責任とともに権利を与えればよいのです。子供として保護するのをやめないならば(たとえば彼らは少年法によって裁かれる立場なのですが)判断主体として全き大人と同じに考えることはできません。

 自由主義の原則は、自己決定の権利をもつ大人と、その権利をもたない子供の厳格な権利上の区別を前提にしている。「自己決定の権利」という言葉は、フェミニズムの支持者にいたく愛されているが、それを子供に認めるなら自由主義は成り立たないということを彼らは知らない。そして進歩的ジャーナリストも知らない。
加藤尚武『応用倫理学のすすめ』丸善ライブラリー)