サルトルの禁煙

 何年か前のことであるが、私はもう煙草を吸うまいと決心したことがある。心の争いは苛酷であった。実のところ、それまでは、私は、私の失おうとしている煙草の味をも、喫煙という行為の意味をも、気にかけていなかった。一つの完全な結晶作用ができあがっていたのである。
 私は、芝居を見ながら、朝は、仕事をしながら、夕方は、食事のあとで、煙草を吸う習慣になっていた。煙草をやめると、芝居からはその興味が、夕食からはその趣きが、朝の仕事からはその新鮮な生気が、取り除かれるように私には思われるのであった。 どんなに私の眼をうばうような不意の出来事が起ころうとも、私がもはや煙草を喫いながらそれを受けいれることができなくなって以来、その出来事は根本的に退屈なものであるように思われるのであった。
「煙草を吸う―私―によって―出会われることが―できる―ということ」。
かくのごときが、あらゆる事物のうえに普遍的に拡がっている具体的な性質であった。私はそれらの事物からこの性質を奪い去ろうとしているように思われた。この普遍的な退屈のさなかにあっては、生きることもあまり価値がないように思われるのであった。



 私がふかす煙草をとおして、燃えて煙になるもの、気体となって私のうちに吸いこまれるものは、世界であったのである。煙草をやめるという私の決心を持ちこたえるためには、私は、一種の結晶分解を実現しなければならなかった。言いかえれば、私は、自分にもはっきりとそう言わずに、煙草を、もはやそれ自体すなわち「煙る草」より以外の何ものでもないものに、還元した。
 私は、世界に対する煙草の象徴的なきずなを断ち切った。私は、私がパイプから切り離して芝居や風景や本を考えていたならば、言いかえれば、私がこの犠牲的な儀式とは別のしかたでそれらの対象を所有することに甘んじていたならば、芝居や風景や、私の読んでいる本から、何ものも取り除かれることがないであろうことを、いまさらながら思い知るのであった。
 (ジャン-ポール・サルトル存在と無』より)

 サルトルにとって煙草とは、愛する女よりもはるかに強力な結晶化作用を引き起こすものである。煙草を吸うという象徴的行為によって、自分をとりまく世界を、喫煙という行為に付随する風景の全体を、自らの内に取り入れることが可能になるからだ。芝居を見ながら、または夕食の席で、あるいは目新しい経験や慣れないことに直面したとき、われわれは煙草に火を点けるが、そのときわれわれは投企/同一化/内部化の行為(この推移は火を点ける/煙を深く吸い込む/周りの空間にゆっくりと煙を吐き出すという物理的プロセスに対応している)を遂行しているのである。
 世界を我がものとするこの我有化の行為を、サルトルは「破壊的な我有化反応」と呼ぶ。炎と煙と灰、灰に吸い込まれるたんなる気体。それらに「還元」されることによって、世界は我有化される。自分を囲む世界を象徴的に破壊することによって、われわれは世界を我有化するわけだ。
 この象徴的な破壊は、クワキウトル・インディアンの部族間で行われる贈与の儀式であるポトラッチ―贈る側の部族が「贈与」として莫大な量の品々を燃やす―と同様の仕方でなされるものである。煙草は、吸われる過程において、固体から身体に進入する煙へと少しずつ変化するがゆえに、「我有化される存在の一つの象徴」である、サルトルはそう語る。



 煙草を吸うことは、ゆえに「犠牲的な儀式」であって、煙草という固体の消滅は、世界を我有化することで「私」が得る象徴的利益によって、無際限に補償されることになる。このことからすれば、禁煙とは世界および自己の貧困化をもたらすものであり、嬉々としてそれに耐えるひとなどいるはずもない。煙草なき人生など、生きるに値しないのだ。
 (リチャード・クライン『煙草は崇高である 批評空間叢書11』太田出版、1997)


 フランス文学専攻の批評理論家はなんでこんなにややこしい書き方をするんだ、という愚痴もでそうな文章ですが、つまるところポイントは、喫煙を「薬物摂取」以外の見方で見ることもできるんだよということです。すべての人間の文化的行為を、たとえば脳内物質の分泌の程度などに還元してみることもできるかもしれませんが、時にはそれだけじゃないということを思い出すことは絶対に必要でしょう。 何も上の文章を全部理解する必要はないとは断言しますが、そこには「自己弁護」以外の何ものかも少しはあるということなのです。


 ちなみにサルトルは『存在と無』において自分の禁煙体験を「もっともらしく」語ってはおりますが、この作品をものした後彼はまた煙草を吸いはじめ、結局亡くなるまでの四十年間煙草は彼の友人でした。

 「二度と賭博をしまい」と強迫的な賭博癖を絶つ決心が幾度も繰り返されるドストエフスキーの書簡に言及するサルトルは、常習的行為と訣別する誓いが、どれほど強固であろうと失敗へ導かれてしまうようなメカニズムの、実存主義的解釈を提示している。そのメカニズムもしくは原則とは、サルトルによれば、われわれが「自由」であり得ることにほかならない。つまり現在における選択が絶対に自由である以上、過去のあらゆる決意は無力だというわけである。鋼のごとき決意であろうと、過去のものは現在の行為を決定できないのだ。