死んではいけない

 実はここ数日のうちに、同級生と先輩の死を知ったのでした。大学院に同期に入った彼は自死。異色の先輩の死は、自棄のような肝硬変での死です。
 確実な話ではないことを申しておきますが、先輩はもうすぐ50になろうとするところで、未だに高校の非常勤職で食いつないでいる状況、同期同輩で大学に残った人たちに身を比して鬱屈もあったろうと思えます。決して凡才の方ではなく、ただ小賢しく身を処すことが苦手であり、かつ運と言いますか時宜にかなうことができなかったというそれだけが、彼の命を縮めてしまったのだと思っています。
 同期の彼は、非常に優秀な人でした。未だに彼の消息を聞いてくる諸先生の数から言ってそれはもう疑いようのないことだと感じます。私も、まあ彼の存在で育英会奨学金を博士前期に取ることができなかったというようなこともありまして、結局後期も奨学金申請せずに何とか凌ぐことになったわけですが、彼の死は非常にショックでした。
 運命の歯車がどう動くかは人智を超えたところにあり、向学心に燃えた彼が奨学金を取り、ぬるい私が奨学金を得られず、優秀な彼よりも私の方が先に就職できたなどということは誰にも説明も何もできないことに思えます。もちろん直接の専攻分野は異なるものでありましたが、公平の女神がいるものなら、彼が先に就職し脚光を浴びたとしても私は何も文句などいう気はない…という具合ではあったのです。


 どちらの死も、あたら有為な人が何故という悲劇にしか思えないのですが、突き詰めて考えますと、文系のそれも思想系の大学院に入ったというヤクザな発端が帰結したということにもなろうかと見えてしまうのです。
 一歩間違えると、それは私であったかもしれないような話です。運不運が左右する、そういう鉄火場なのかもしれません、文系の院は。


 今日になって思ったのですが、ここまで延ばし延ばしにきた奨学金の返還が、とうとうデッドラインに来て彼は自死を選んでしまったのかもしれません。むしろ勉強時間を削って、一つ二つの予備校で稼いでいた私が、結局は奨学金(を貰っていたわけでもないのに)返還の責務から解放されるような立場に至り、彼のような人がその重圧をまともに受けることになってしまっていたのは、全く誰が予想できることでもなかったでしょう。


 でも、それだからこそ言いたいのは、やはり人は自分で死んではいけないのだということです。周りの者はほんとうにやりきれません。生きていればこそ、いろいろこれから先もありうるのです。死んで花実が咲くものか、なんです。


 実は仙台で酔っ払いのお坊さんに絡まれていました(at某懇親会)。
 お酒を飲んで何か話をする時、自分の思考のループから出ない(抜け出せぬ)ままに他者を話の相手にしようとすること、これが一般に「絡む」と言われているような態度だと思います。相手の話なんか聞いてもいないという点で非常に失礼ですし迷惑な話です。聞いている方は脈絡もよくわからず、時に勝手に泣いたり怒ったり…。
 一番癇に障ったのは、彼が「人間は生まれてきた以上皆死ぬんだ」という話を繰り返したことです。
 それに異議を唱えるわけではありませんが、ちょうど知人の若い死を知らされたばかりの私には、この酔っ払いがあまりにも自分勝手なものいいをするように思えてしまったのでした。


 文系の大学院に行くのは、もし相談されたなら今の私は止めるでしょう。止めてもなおかつそこで行くような馬鹿なら、お好きなようにと言うでしょうが…。そういう馬鹿は好きです。でもそれはもしかしたら悲しい馬鹿です。そしてそういう人たちを多く見ているからこそ、表面的に勝ち組だの負け組だの言う人たちには好感が持てません。これは正直なところです。