テキスト(笑)の向こう側

 あれ?という感じの匿名ダイアリー「■カタカナ語をまだ「嫌い」といっている人がいた」に関する突っ込みはいろいろ出てきているようですし、それは他の方にお任せして(たとえば「■カタカナ語が壊れている人がいた」)、テクスト―テキストのことでちょっと考えてみました。


 学部の時分に中学生相手の塾講師をやっていて、某中一の男の子が書き取り(というかスペリングの小テスト)で、「りんご」に相当する英語の綴りを書きなさいという問題に
 「apo」
 と書いていて大爆笑ということがありました。よくよく考えてみると素直に耳で聞けば「アップル」ではなくて「アポー」に近い(笑)だからこの子はそれをつづろうとしたのだというのがわかって面白かったのです。
 カタカナ表記をできるだけ厳密に音写でやろうとすれば、textはとうぜん「テクスト」ですしappleは「アポー」でしょう。あくまで音写には近似値で表すしかないという制限はありますが。


 「テクスト」という表記が市民権を得てきた文脈には、80年代あたりのポスト・モダーンな(笑)思想ブームが影響していたんじゃないかという個人的感想はあります。その文脈の違いが未だに残っていて、最初の匿名ダイアラーの人はそう了解してしまったということではないかと。いえ、そういうことならもしかして「テクスト」は「texte」というフランス語の訳語ということなのかもしれませんね。だからどうだということは全くなくて、textとtexteの厳密な違いというものを(あるのかどうかも含めて)知っているわけじゃないですけど…


 文脈ということでは「コンテクスト」という言葉の方がよく聞かれると思いますが、人によっては頑なに?「コンテキスト」とお使いの方もいらっしゃいます。textをテキストと表記するならば、確かにcontextはコンテキストとするのが道理というものですけど、そこらへんはちょっと恣意的ですね。最初に耳で聞いたときにcontextの中のtextを意識しない場合には、そのままコンテクストと言ってしまっていると思うのですが。


 "text"の向こう側には"woven thing"(織られた・組まれたもの)があります。"weave"される対象の具体的な素材、あるいはその織り目の"textile"。それが織り上げられる仕方、作られた製品としての"texture"。そういう在り方が抽象性を獲得して、組織・構成・構造という意味合いで「書かれたもの」を指し示す"text"の意味が生まれてきた…という感じで私は了解しています。


 だから緻密な構成などたいして考慮していないこういう雑文は、本来テキスト・テクストの名に値しないものなのかもしれません(笑)。ちなみに"textile"は「テキスタイル」、"texture"は「テクスチャー」が音写としてぴったりくるようです。


 私はカタカナ語は歴史の浅い外来語、漢語は歴史の深い外来語だと考えます。だから逆に長い年月が経てば、今私たちが漢語を使っているぐらいに定着した日本語の一部としてカタカナ語は「日本語」になると思います。
 またはるか昔に日本語に取り入れた漢語の発音に厳密性がないのと同じく、ネイティブが聞いてもわからないような「言葉」として定着したとしても、それはそれで案外構わないのではないかとも思うのです。


 何もカタカナ語の氾濫に目くじらをたてる必要はありません。やまとことばに外来語を入れるという面から見れば
> この文章を構築する
 というのも
> このテクストをコンストラクトする
 というのも
 同じような意味なのですから。