社会的属性と個人の事情を結びつけて語ること(差別)

 sk-44さん@地を這う難破船の「■何が「差別」であるのか(――検証)
 傾聴すべき御意見(長いんですが…)

結論としての要約――何が「差別」であるのか。それは。


「履歴的な社会的属性」としてのAに対して「個人の事情」に属するBがあるとき、「AはB」「AだからB」とする定式化した発想/意識認識/価値観とその命題化におかれる、「is」「だから」という関数の存在と入出力、その結果的なる表出こそが、差別に該当します、少なくとも、本件の場合においては。


AやBに如何なる内容が代入されるか、そのことは一義には問題ではない。AとBを単線的に、ないしはイメージにおいて直結させる「is」「だから」という関数としての発想と、関数におかれる入出力としての命題設定ないし命題化それ自体が、差別の機能を果たす。


私のスタンスを改めて示すなら。「差別」とはそれを存在させる歴史的な社会構造と現実の社会的な文脈にフィードバックして問われなければならない問題です。明文化されざる事実性としての差別の構造が現行の社会に組み込まれている。現実の個人が毀損されたときに「社会」の事実性をもって応対することを、個人たる私は一概に良しとはしたくない。
(前後大幅に略)

 ご意見ごもっともというところも多いのですが、(たぶん)私とはやや違った観点でもこの差別という問題を見られているというところでいろいろ啓発されました。これは何となくいろいろひっかかっていた向きには必見かと愚考。


 以下まったくの蛇足


 顕在的に流通する「自己責任論」というものがいつから出てきたか曖昧なのですが、個人的印象としては「ネオリベラリズム」だのといったものが聞えてくるずっと前からではないかと感じています。そして密かに思うのは、この論調は制度論といいますか社会(構造)論でとにかくいろいろなものが語られてしまった風潮に対するアンチ、カウンターとしての意味があったのではないかと…
 たとえば殺人事件などの被告に対して「社会が悪かったからこの人は罪を犯してしまった」的な言説が強かったとして、そればかり突き詰めると本人の責任は消えてしまうだろうと対抗して言うようなものですね。


 社会構造に還元して語ってしまうのにも程度はあろうということでしょう。そしてもちろんすべてを自己責任に押し付けるのも間違ったことです。たとえ面倒であろうとも、その中間のどこかにふさわしいポジションを求めてケースごとに考えるというのが正しい態度なのでしょうし、それが認識として共有されるまで制度論と自己責任論はせめぎあいを止めることなく続けるのかもしれません。


 sk-44さんの書かれたものを読みながら、何となくそういうことが思い浮かんできましたので記しておきます。